自分でしゃべって自分で笑う人っているけど、自分の中で全てが完結してしまうのだろうか。

 

 習慣化した笑いのフォームを繰り返しているのだろうか?

 

 

   ※

 

 フォームを繰り返していると本当に楽しくなってくる… ?

 

 顔の筋肉が笑う形をとるだけで脳が勘違いして本当に…というあれか…

 

 そこに、無自覚に気づいているのかは謎。

 

 

 

   ※

 

 お酒に酔うと、笑うの前提で話す、みたいなところが出てくる気はする…

 

 

   ※

 

 フライング笑い、というか、そんなのしそうなくらい笑いを前提にしていたら、すでに楽しくなることが起こる準備が整ってしまっている。

 

 そういう人・もの・ことと会う日を迎えた証だ。

 

 

   ※

 

 よく笑う人って、もうはじめから笑いたいんだろうな。スタート地点から違う人だ。

 

 

 

   ※

 

 その人の笑い方が好きなら、その人を好きになる可能性も大きんじゃ…

 

 

   ※

 

 かなり久しぶりに思い出し笑いしてしまった。

 なつかしいくらいだな、こういう笑い方。

 いいことならなんでもいいのに、長い間、過去のいいこと思わずにいたのかな。

 

 

   ※

 

 「笑い」って人にとって重要なんだろう…一日を振り返ったとき、「笑い」はあったか。

 どんな「笑い」だったか。で、何に対して「笑っ」たか…

 検証してけば、その時のその人が、どんな人間性だったのかもわかる。

 良くも悪くも、「笑い」が人らしい人をつくるからだ。

 

 

 

  ※

 

 同級生と十数年ぶりに会った。

 容貌がかなり変わっていたので、はじめ誰なのかわからなかった。けれど、笑った表情を見たら誰かを思い出した。

 笑い方は変わらないんだなぁと思った。

 

 

 あと、身振り仕草や歩き方とか”癖”は変わらないみたいだ。

 

 

   ※

 

 そういえば、漫画に描かれる個性の強い登場人物は、笑いも個性的だなと。

 今、頭に思い浮かべているのは、『ワンピース』の黒ひげと白ひげの笑い方だけど。

 (ゼハハハ~とかグラララ~とか普段は聞かない個性的なもの)

 あれは強い個性(=癖)を表現しようとした時、自然要請されて出てきたものっぽい?

 

 

 

   ※

 

 人々がゴッホを笑い、

 ゴッホが人々を笑う。

 ある天才とある人々にあった関係

 

 

 10人中9人がよいと言ったらそれは真の芸術か?

 

 そんなわけはない。真の芸術は民主主義ではない。

 

 

 ゴッホが教えてくれたことだ。

 

 

   ※

 

 ダ・ヴィンチは、数ある笑いの中から「微笑み」を選んだわけだけど。

 パブリックスペースで、長時間、開示される笑いとしては、「微笑み」が一番受け入れられるんでしょうね。

 他の笑いは、ネガティブで醜い印象もあるから、美を追求する場合、審美眼やその本質の考察から気にする画家も多くいたので……

 

 もしくは、あえて描くか。

 各「笑い」が、どこからやってくるのか。一般の人でも、考えるだけでおもしろいんじゃないかと。芸術って、専門家だけが、愉しむものじゃないと思うし。名画の中には、不変の真理が入っているはず。

 「笑い」について考えながら、美術鑑賞しても愉しそう。

 

 

   ※

 

 お笑い根性という発想はあまりなかったのでそういう発想をしてみたりする。

 

 

   ※

 

 逆に言えば、何かかにか壊れていないと/壊していかないと、心の底から楽しくならないということも。笑い、自体そういう運動であり反射であり反応であるのでは。

 

 

   ※

 

 あんまり笑っていると、自分の中で何かが壊れた~という感覚にならないだろうか?

笑いによって壊れたものがネガティブなものならよきこと。

少し乱暴な言い方をすれば、笑いは、一つの破壊ツール、いや破壊そのものなのかも?

 

   ※

 

 この人と笑いあえたっていう……関係が一歩進んだような喜びはふりかえればありますね。

 気になる人だったりしたら、その人と一緒に自然になれた…、本来の自分にお互いなれた…、という一体感からなのか、うれしいもんです。

 

 

 

(おわり)