心(の形)は、ひとつと思われがちです。

 

ところが、…

 

・自己幻想

・対幻想

・共同幻想

 

   吉本隆明『共同幻想論』

 

 

三つの心の領域がある、という説があります。

 

わたしもかじっただけですが、ほんの表面の知識だけを、羅列していきます。

 

 

① 自己幻想; 一人でいるときの心の形。

 

② 対幻想; 自分以外の誰か一人といるときの心の形。

 

③ 共同幻想; 三人以上でいるときの心の形。

 

 

 ここでの「幻想」は、”思い込み”くらいの意味でしょうか。

 

心の中における思考などの精神営為は、所詮、人の思い込みにすぎないよ、と…

 

 

 簡単に、詳細を。

 

 

① 特にものごとを深く考えたり、自己反省するときには、一人になる必要があります。

 

② 恋愛は二人だけの世界観を構築させ昇華させています。ただし恋愛に限らず、単純に誰かと二人でいる場合がこれにあたります。

 

③ 核家族・三人以上の友だちグループ、同族意識、伝統精神、地元愛、国民感情、人類皆兄弟など。集団でシェアする心の形。

 

 

 このように、ひとの心には、三つの領域がある、という説です。

 

 これらの心の領域がお互いにバランスをとって社会生活に応対しています。

 

 その場の状況に合わせて心の領域を入れ替えることは、精神を健全な状態に保つための自然な行いです。

 

 これは精神が崩壊しないためでもあります。

 

 

 

 ところが、ひとは容易く、この三つの幻想のバランスを崩してしまう。

 

 

  例)

 

①と③の錯誤

 

ケース1 ある人が何かの政治デモに参加しています。皆と一緒になって、何かを必死に叫んでいますが、その思想が本当に自分の思想なのか確かめてみたのでしょうか。

 

ケース2 普段、蚊も殺せない性格の人が、軍隊という共同幻想の一員になると躊躇せずに人を殺せるようになってしまう。

 

 (集団思想は自己のもつ共同幻想と勘違いされやすいので気を付ける必要があります。)

 

 

①と③の錯誤 パターン2

 

ケース3 外国人の一人が国内で犯罪を犯すと、その国の人全てを悪いと決めつけてしまう。

 

 (個人の問題→集団の問題)

 

 

②と①③の衝突

 

ケース4 恋人関係(対幻想)を優先させるあまり、二人以外の他者への愛をおろそかにしてしまう。愛への理解で自己矛盾してしまう。

 

恋愛とは、利己主義が二倍になったものに過ぎない。

 

エーリッヒ・フロム『愛するということ』

 

①と②の錯誤

 

ケース5 片思いの恋愛感情(自己幻想)が、相思相愛という妄想に差し換えられ暴走。ストーカー化。性犯罪に至る。

 

 ニュースなどでよくみる現代病でしょうか。

 

 

 

 人の精神(状態)パターンを様々な状況内で説明するとき、心を一つとすると論理的に整合性を保てなくなります。

 

 しかし、人の心はこれらの三つの領域にカテゴライズされて其々に住み分けがなされているとすれば、すっと理解できそうです。

 

 要は、①②③をごっちゃにしないよう警鐘を鳴らすことができる、というわけです。

 

 

 

 いや、…ちゃう。そうではなくて…

 

 さて、今回、書きたかったことは、『共同幻想論』の簡単な説明などではなく、

ひょっとしたら、この三つの心の領域の他に、

神仏と接したときの心の領域なるものがあるのでは…?ということでした。(自然発生的な疑問というか…)

それは、建仁寺の敷地内を徘徊しているあいだ感じていたことでした。

 

よっつ目の心的幻想とでも言えばよいのか。

 

 

 

仏を隣においたときに、現れる心の領域があるとしたら…と。

 

ひとではなく、実体もなく、人智を超えた存在である仏と一緒につくる心のかたちです。

 

煩悩や輪廻、浄土、悟りなどの仏教観を背景にしている環境に囲まれると…

 

先人の方々が積み上げてきた信仰(信じる心)をその身で受け取ります。

 

経験上、これはたしかにあるんじゃないかと。

 

お寺に出かけたとき誰もが自然に感じることではないでしょうか。

 

 

仏の教えを介して得られる幻想(心のかたちなの)かもしれません。

 

 

 

 

 いや…そもそも、

 

 たえず、

 

 ひとは相対するものによって心の状態を変えているのでしょう。

 

 ペットなどの犬や猫と一緒にいるときは、人や仏と接するのとはまた違う心の状態になっている…

 それどころか、家庭菜園しているナスやキュウリなどの野菜にさえ…独特の心の状態が形成されている!?

 

 (まぁ、それって結局、自己幻想だよね、とは言うことなかれ…神や仏の場合、いるいないの話になってくる…

 

 そういえば、イマニュエル・カント(ドイツの有名な哲学者)も、神がいるかを証明することはできないが、それでもそういう存在がいることを要請している方が、よりよく生きることができる、とはっきり言っていた…

 

心のさらに細かな分化であり機微な変化の観察とでもしておきます。)

 

 

 いろいろなものと代わる代わる接していると、心の領域が変化していき、少域であっても爽快さやカタルシス(浄化効果)が生まれているのかもしれません。

 

万物は流転する。

 

ヘラクレイトス

 

ですが、

心もまたトランスフォーマーであると。