最近、いろいろ病んでいるけど、
桜を愛でる心はまだ健在だ。
願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
西行
(詩歌で花という場合、それは桜を意味する。如月は旧暦、現在の3月中旬以降。望月は、満月のこと)
サクラの満開の下の世界観で死にたい。
桜を見るがためだけに、京都へやってきました。
桜並木を歩くだけで、心救われます。
木屋町・高瀬川付近の並木道から円山公園まで歩いてみました。
有名な枝垂れ桜
『桜の森の満開の下』(坂口安吾の説話風短編小説)では、
いつの日だったか、
道に迷い、桜の森の満開の下を歩いたときの心境と、奇妙な魅力をもつ女性に出会ったときの印象が似ている、と表現していました。
桜は恋に似ていたり、死に似ていたり、なんなのでしょう。
サクラを眺めているときの心理学
なにかありそうです。
桜と対峙しているときだけに生じる心のかたちがあるとしたら、
サクラというものと心というものは不思議で謎めいたものです。
そわそわしてしまいます。
人々のDNAに宿った文化的記憶もあるのでしょうか。(ソメイヨシノの歴史は浅いのですが。ヤマザクラは自生できますね)
ある種の幻想?でも、なんの幻想でしょう?幻想に感情を抱いている危険性はどこかに感じられる?
遠い遠い祖先の記憶…?
個人的にもさまざまな人々的にも見えない感情の重なりあったもの…そんな気がします。
愛するものがあるならば
幻想でもいいのかもしれません。
※新型コロナウイルス感染予防のため人込みを避け、市中を人との距離を保ちながらぶらぶらしていました。(もともと人の数が少ないのですが)あとは、食事の時は外出しましたが、ほとんどはホテル滞在。
感染予防のために、手や指で目・鼻・口をなぶらないことに努め、こまめに手を洗っています。
このウイルス、咳などの飛沫は当然アウトですが、物体の上にくっついて長生きするのが特徴。目に見えないのでなおさら気をつけなければなりません。感染していない場合でも、小物や衣服、皮膚等にのっかって知らず知らずに運んでいるかもしれない。
マスクは必須。咳をしている人からは離れる。
皮肉なことにこんな状況なので街はがらがら。こんな状態で京都で桜を見られるなんて絶対なかった。複雑な心境です。