言語の発達がなければ、複雑な構造を持つ心の発達もなかった、というのは、ソシュール以後の近代言語学を紐解かなくても、あの『聖書』に、”はじめに言葉ありき”、とあるのを知れば、自ずと導かれるのではないでしょうか。
自分で考えをまとめてみようと思います。多少、堅苦しい内容になるので、苦手の方は自由裁量で読むのをやめたり読み飛ばしたりしてください。(今回は、私のもやもやしたものを解消したい欲求が多分にありましたので、自分ノートみたいなものになると思います)
(言語と心の関係について)
心的語彙が指す心の範囲は、あまりに雑然としすぎる。理性や知性的な領域にとどまらず感情・情感・五感・直感・欲望など様々な人間全体の能力に関わってくる。(まず漠然と感情・情をベースにした気持ちの在り方に重点を置いた”こころ”という捉え方があります。日本人が自然に連想する心かと思います)
一方、精神(ガイスト)と呼ばれる「心」の活動の方は、どうだろうか。
ヘーゲルは、精神は概念に依存する現象の領域にある、と定義しています。(ここらへんの基礎となる定義を19世紀の段階で明確に出した功績はさすが)
それを受け、現在、デネットという学者が、人間の概念に依存する現象、である人間の心を精神だと提示しています。
心と言語の関係を明瞭化するために、雑然とした心ではなく、精神について注目してみます。
どうも(広範な意味での)心という意識体(この場合、無意識領域も含めたものを意識の全体とする)と精神(ガイスト)をあえて差別化するために、概念というものが大切になってくるようです。
なので、必然的に概念とはなんぞやという話になってしまいます。
以前、概念について書いたことがあったのですが…おさらいしてみます(ぜんぜん、人気なかったので、気がひけるのですが)
なにしろ、精神は、これに依存する…とまで明記してあるだけに、ここを無視して通るわけにはいきません。
以前ここで書いたのですが、その文をもう一度掲載してみます。
概念
・あらゆる対象について頭の中にもっている意識の内容
辞書を引けば、いろいろ出てきますが…
まぁ、頭の中にある抽象的な像みたいなもの…言葉によって結び付き…本体とは独立したイデア(=心象・表象)
観念と概念の違いも以前、掲載したことがありました。
・観念:人が物事に関して抱く、主観的な考えのこと。意味が似た言葉としては「概念」が挙げられる。「観念が人がそれぞれ抱く考えを表す意味で使用するのに対し、概念は、物事において多くの人に共通する特徴を表現するときに用いることが多い表現。
(『実用日本語表現辞典』より)
ここでは「観念」も「概念」も、あらゆる対象について頭の中にもっている意識の内容としてひとまとまりで扱うことにします。その方が説明上便宜がよいからです。以下「概念」で統一。
ここで言えることは、ものごとのイメージをある程度、とりまとめる(規定する)能力であること。
これにより、ものごとをまとまりをもったイメージとして扱えるようになり、世界にあるあらゆるものごとを相対的な認識で扱えられるようになったこと。
ひとはイメージする能力がなければ、動物と一緒です。
イメージは概念の本体と呼べるものでしょう。
意識を別の意識下で相対化させる能力が人にはあります。だから、人間は、自己を概念化することもできます(これは動物にはできません)。
ここまでの展開から、考慮してみると…
人は概念がなければ考えることもできない。→人は概念を使用し思考する。
概念を他者と共有するには、言語が必要になります。そしてはじめある概念にタグづけられていた言葉が、逆に(新しい)概念を生むようにもなります。
近代言語学の常識では、言葉と言葉の関係は相対的であり、絶対的なものではありません。(また概念の範囲は他との差異で決まります。言葉と概念の関係も相対的なものにすぎません)
社会の状況や時代の変遷につれて、関係の在り方や内容領域は変化していきます。
ここらへんの説明は省きます。
いろいろ書いてきましたが、概念というものは、イメージと思考に関係するもののようです。
(概念と精神の関係についての(私なりの)結論)
つまり、精神(ガイスト)が概念に依存するとは、「思考する(=概念の活用)」という知的活動に依存していると言い換えられる。
(代入したような文ですが)
複数の概念を積極的に絡み合わせ思考するには、それらと対関係を成す言葉が必要になります。それによって生まれた高度な思考を他者に伝えるにも共通言語が必要になります。
やはり概念と言葉は密接に絡み合った関係のようです。そうなると概念に依存する精神(byヘーゲル)にとっても、言葉は密接に関係のある存在だと導かれます。
思考(=概念の活用)が言語によって、促進されると、それらに対しての感情も複雑多種なあらわれをみせることになります。
人間の能力の中でもっとも尊い想像力を高め、感情や感性、直感などを加えた人間全体の能力が、様々な方面で表現されるようになりました。
言語がまだなかったときの人類の感情は、動物的・本能的な表現が強く、単調でストレートなものだったことでしょう。
それが言語を備え持ち、(その地域・国・民族の)文化を発達させる頃になると、繊細な感性に基づく美意識が心に芽生えるようになります。
複雑な(シチュエーションの)恋愛の悩みも生まれます。
長い人類の歴史の経緯には、そういう人類の心的状態(レベル)の発達が(概念と言葉のやりとりの中で)あったことは、想像にかたくありません。
ということで、まとめとして、「言葉が心(特に精神という心的語彙であらわされる存在)をつくった」という一応の結論とさせていただきます。
さいごに、作家、三浦しをんさんの『むかしのはなし』という小説の言葉をご紹介させていただきます。
感情というのは、理性によって生まれるものなんだと。
理性と常識が曖昧なモモちゃんには、感情もまた、曖昧な情動としか存在しなかったのだ。
『むかしのはなし』p.207
おもしろい逆説だな、と思った次第です。
理性や知性の象徴が言語であると西欧社会では伝統的に考えられてきたようです。
あくまで、わたしの考え、思弁ですので、あしからず。
(おわり)