こころをばなににたとへん
 皆さんは心を何に喩えるでしょうか。(前回からのつづき)

 今回は別の角度からのアプローチ。



 詩人の谷川俊太郎さんが、朗読会で、こども(向け)の詩を朗読しています。間にある話中、(人生を)巧みな喩えで説明する箇所がありました。

 氏は、興味深くユニークな所論を展開してくれています。


 引用として書き出してみます。ニコニコ





1:42くらいから~

人間は年輪…樹の年輪みたいに考えているんですね。なんかグラフにして右肩上がりで、ずっと年取っていって、なんか中年で一番働いて、それからだんだんだんだん下がっていくみたいにさ。それでさいごにこう…かまぼこ型で…そんなグラフで考えることが多いんだけど…
僕は、そういう考え方は取らないで、樹の年輪にはいつもゼロ歳の自分がいる。で、そこからだんだん輪っかが重なっていくと…一番、外側に現在の自分がいるよっていうふうに考えているので…その自分中心にいる幼い自分に、何かの形でアクセスできれば、子ども相手の詩が書ける。そんな感じなんですね。


 簡単なグラフをつくってみました。



 これが一般的に考えられている人生モデル。


 そして、




 こちらが谷川さんの言う、人生を樹の年輪に喩えたモデル。
(こういうのは得意ではないです。こんなレベルの作図で申し訳ないのですが…)



 なんとなく…体力的・肉体的な推移と、精神的な推移がないまぜになっている気がしますが…
 論理のすりかえだとか、誤認とか…つまらないことは言いっこなしで。ウインク




 年輪モデルの人生論は、「精神(こころ)」に適用してもよい喩えになりそうです。



 こころをばなににたとへん → 樹の年輪


 自分の精神が、樹の年輪モデルだったら、死ぬまで成長できる…ということになるので、かなりポジティブな発想です。


まとめてみると・・・

・現在存在する自分は、現在だけの自分で成り立っているわけではないし現在だけの自分で存在しているわけでもない。
・年輪構造のまま、精神は、複層的(入れ子状)に統合された存在である。
・過去の経験である自己存在は消費されたわけではなく、今も共生している。
・肉体は、全細胞が入れ替わっているので異なる存在とも言えるが、精神は引き継がれているので異なるかの境界が曖昧である。


 少し被る部分もありますが大体こういうことか。。

 あと、フランスの詩人、シャルル・ボードレールの言葉「天才とはつまり意のままに取り戻された幼年期にほかならない」も想起しました。


 15歳の頃の感受性を取り戻せたらどんなふうに芸術に活かせるのだろう…
 また悩みを抱える十代の心情にもっと寄り添ったアドバイスができるのかもしれない。



 ただ…

 これ実は、哲学者ハイデガーの著書『存在と時間』を視覚的にわかりやすく説明したものでは?(元ネタ?)
 プラトンの完璧な三角形は、イデアの中にしかない、というのを完璧なおにぎりは、頭の中にしかない、というような…

 (こども向けの詩の文脈だけに…)


 年を重ね年輪が増えていけば、より太い幹となり樹の背丈も高くなる。天にも届きそうな背丈の樹に近づくほど(ニーチェが書いていたと思うけれど)、稲妻(=閃き)が落ちやすくなる。
(これも比喩ですが…)

閃きを多く体験できるなら。。ニコニコ


そうならんことを我切に願わん。。ということで

(おわり)