こころをばなににたとへん。

 

 日本における近代口語自由詩の祖、詩人・萩原朔太郎に「こころ」という詩があります。

 早速読んでみます。

 

 

こころをばなににたとへん

こころはあぢさゐの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて。

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん。

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言ふことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

 

 皆さんは心を何に喩えるでしょうか?

 いざ心というものの実態を説明しようとしてもなかなかうまくいかないので、せめて喩えてみよう、と(いうことを)するのがひとの性分と言うものではないでしょうか。

 

 この詩では、いくつもの喩えをあてがい「心」というもの(深層、重層?)を、複層的かつ統合的に詩(に)(表現として)反映させようとしています。

 

 たしかに、このやり方ならば、「心とは?」の答えに近づける気がします。

 少なくとも、詩以外の小説や論文などより「心」そのものにダイレクトに近づける(表現である)気がします。

 

 何かたよりない心というものを可視化/言語化させて、なんとか身近に(置いておこう/)感じ取ろうとしています。あくまで詩語というカテゴリーでですが。

 

 

心→ あじさいの花

心→ うすむらさきの思い出

心→ 夕闇の園生のふきあげ

心→ 音なき音のあゆむひびき

心→ 二人の旅びと…

 

 

 四つ五つ並べていくと、心のイメージが立体感を持って立ち上がってくる気がします。比喩という対象が心映えしてくるのでしょう。

 

 

 試しにわたしも即興でやってみますニコ

 

 

こころとは、(えっと…)

…ストロベリー(甘酸っぱいフルーツ的な)

…大学ノート

…いつもの並木道

…止まった時計

…スマホの打ち込み

…月一の旅行

 

 

 まぁ、なんだかよくわからない比喩?になってしまいましたが、無理やりその時その時の自分の心に当てはめてみるだけでも、少なくとも自分の中においては立体感が出てくる気がします。

 ただ、心理的な感情(で)の共感を他者とつくるにはまだまだですね…ショボーン

 

 

 詩情の実感に「こころ」を見るみたいな感性でしょうか。

 

 

 朔太郎はその時代その環境でもっとも強く想起したイメージを大事にしたのでしょう。

 

 

 因みに、個人的な嗜好ですが、「平安の心映え」や「万葉の心映え」という言葉は好きです。

ある時代の精神(こころ)がその趣のまま(現代から見ると)映えている。ある時代の一種の集合的な精神(こころ)のあらわれで、時代精神/ツァイトガイストの側面がよく出ているのではないでしょうか?

 

 

 

 ところで、…

 

 アニメ監督の宮崎吾郎監督が『ゲド戦記』で、この詩そっくりの詩を掲載し物議を醸したことがありました。(ネットで調べると拾えます)

https://plaza.rakuten.co.jp/futsupa/diary/200608010000/ ←ここなど

 

元ネタとしてつくったそうですが…

 

 タラーそのまますぎて突っ込みを入れずらいほどです。

(まぁ、ここでの眼目はそういうことではないのでスルーします)

 

 

  まぁ、なんにしても、

 

  心を、ピントがブレずクリアーにするのは難しい。特に正鵠を射るのは至難の業。

 

 

 朔太郎の詩での喩えは、何か遠いところで心と言葉がつながっていることを感じさせます。

 それがなぜだかは誰にもわかりません。おそらく朔太郎自身にもわからないでしょう。

 

 

 谷川俊太郎さんの「生きる」という詩などは、(二連目)

生きるを、「ミニスカート」ではじめていますので…

 

 まぁ、こころに何が反映しているか。

 

 

 対象をつうじて心を見つめるしかないのかもしれません。

 

 こころが単にこの世の鏡にすぎないのなら、心があるのもこの世があるおかげ。

感謝感謝であります。

 

 

(次回は、別のアプローチで「こころ」をたとえてみます)

 

(つづく)