京都貴船神社に行くまでの道すがら。 夏に行くと、川の真上に川床(ゆか)と呼ばれるお座敷が敷かれ、食事を楽しむこともできます。水がきれいなことで有名です。

 

(写真は数年前)

 

 山里深い山道を歩いているとどこそこから聞こえてくる清流の音。気のせいか耳の奥からも山水の流れる音がするような…?どこかで水が絶え間なく湧いている…そんなイメージもしてきます。姿が見えなくとも清らかな存在を察っして心身ともに癒されます。

 

 

 自然のなかに身を置き、きれいな水が身近にあると感じられるだけで、日常の煩わしい物事が浄化されるようです。自然と気の流れの一環に自分自身を置くことが、最良の生き方である、とした老子(道家の祖)の教えを思い出します…無為自然っていいなぁ。自然のなかでするもの思いって都会にいるときとは違う結論をだすのかも。

 

 実は鞍馬山の方にも行きましたが、山道を歩いていると、ネイチャー・ヒーリングされていくのを実感できます。

 思いっきり自然エネルギー入りの空気を吸って、60兆の細胞一つひとつに行き届くよう沁み込ませる。そのあと、体中のネガティブな毒素をゆっくり体の外へ出すイメージで息を吐いていくと、心身ともに生き返るようなカタルシス体験ができます。

 

 人間の体の60%が水でできているからなのか、ずっと五感と感情で感じ入っていると、身近にある清流が自分自身とシンクロしているように思えてきます。何にしても、心が癒される効果があるのは確かなようですね。

 

 

 古来より日本の神道では、禊(みそぎ)をする(=水で洗い清める)ことが、悪しきケガレを祓うもっとも効果的な対処法であったようです。

 

 ケガレとは、宗教的・心理的な意味合いでのヨゴレのことです。不浄の心とでも言うべきものでしょうか…神道の考えでは、ふつうに共同体で社会生活を送っているだけで忌むべきものを溜めてしまうそうです。そのため宗教(神道)上のケアが必要になってきます。

 

 禊ほどではありませんが、ケガレを、”祓い”という儀式で清める信仰が神道にはありますよね。数ある節句行事などはそのための行為でした。

 

 宗教観はおいておいても、たしかに学校や会社などの共同体にいるとストレスが溜まるし、鬱屈した心が人間関係から起こることは今でも変わらないですよね…

 

 

 きれいな水は、科学的な衛生面だけではなく、心理もきれいにするようです。

 

 

 

 そう言えば、由緒正しい神社は、たいてい自然に囲まれた場所に建てられているし、きれいな水に携わっています。

 

 特に貴船神社一帯のように水がきれいなことで有名な地域では、水自体が信仰対象になっていても不思議なことではありません。

 

清い水

視覚

聴覚

臭覚

味覚

触覚

すべてを(プラスに)開放する装置

 

 

心のなかに清流の流れるイメージが(一定時分でも)生まれれば、日々のケガレを祓えるような気もしてきます。

 

 

 

 (さらなる逍遥と徒然)

 

 ただ、昔の人がそんなふうにごく身近な自然から感じ取っていた自然(たとえば水)との一体感&浄化感は、現代人のそれとは少し様子が違っていたのではないだろうか。そんなふうにも思っています。

 

②へ続く。