最近、「~の聖地」という言葉が気になっているflatpancakeです。「~と言えば、~」みたいなところって気になります。
ところで、ヒンドゥー教の寺院を見るたびに思うことなのですが、寺院の屋根に神様の像がこれでもかというくらいびっしりと置かれています。
これっていったいなぜなんだろうとずっと思っていました。
インドなどの満員電車を連想したりもしましたが…
まさか人が多けりゃ、神々も多いという単純な理由ではないと思いますし…
でも、この寺院と電車から受ける印象…なんだか感性が似ている気がします。(こんなこと書いたら怒られそうですが)
なんでもブッダである釈迦牟尼も、ヒンドゥ―では数いる神々のひとつにすぎないと言います。
なんだかお祭りみたいになっちゃっていて、大丈夫なのだろうかと…
ヒンドゥー教で、もっとも有名なのが、ブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァの三神で、それぞれ創造・維持・破壊の最高神です。因みに、インドで一番人気は破壊の神シヴァであるらしく、同神を祭る寺院や像が一番多くあるそうです。それに続くのが、維持の神ヴィシュヌ…そして、ブラフマン…日本でもよく知られている(?)ユニークな象の姿をした神ガネーシャやシヴァの妻パールバティあたりになるでしょうか?
すみません、ぜんぜん詳しくない。でも何に気をとめたかと言うと・・・
この世は創造主ブラフマンが生み出した幻(マーヤ)に過ぎず、ブラフマンが一たび、目覚めればこの世は一瞬のうちに消えてしまう夢であるという信仰にです。
この宗教観は、はっとしていいな、と思いました……最近、忘れていた感じ方でした……
それに最近、ペルシアの詩人、オマル・ハイヤームやルーミーの詩を読みなおしていたのですが、彼らの住んでいた西アジアにも通底する儚思想みたいなものがアジア全体にあったのではないだろうかと。(彼らは、イスラムですが。)宗教を超えたアジア的な深層心理がありそうです。
古代インド、バラモン教においては、梵ブラフマンは最高神とされ、万物の根源を担う存在だったようです。
ただし、現在、ブラフマンの人気は落ち、存在感も薄くなってしまったようです。今ではすっかりシヴァやヴィシュヌに人気を奪われてしまった。
ヒンドゥー自体が、シヴァ教やヴィシュヌ教で解釈が異なるようです。
しかし、ここで、ヒンドゥー教というのは、一見、多神教のように見えて、実は、一神教に似た本質を隠しているのではないか?と思うようになったのです。
喩えば、一神教と比べてみると…
キリスト教には、この世のどこにでも神性(divinity)が遍在するという考え方があるようです。omnipresent(オォムニプレゼント)という英単語がありますが、これは、どこにでも存在している・遍在しているという意味です。
キリスト教の神は唯一つであり、同時に、人々の生活をとりまくあらゆる場所にも遍在していると。
その理屈からすると、三位一体説も成り立つように思われます。(三位一体とは、唯一絶対の神を、父と子と精霊の形態で説明したもの)。精霊が、高エネルギーとして多量に集まったものが、天使や人の血肉をとったイエス・キリストだと考えれば、わからないこともない。この世のあらゆる神秘や奇跡も起こす。
しかし、親兄弟関係にあるユダヤ教やイスラム教では、神は目に見えないという教えが、堅持されているのに、キリスト教(カトリック・プロテスタント(・ギリシア正教は△))だけが、十字架に架けられたキリスト像を偶像崇拝している。親類宗教から大問題だと非難されるひとつの要因になっているようです。
話が長くなりましたが、ここで、この考え方をヒンドゥー教の創造主ブラフマンに当ててみれば……この世のすべては、ブラフマンの創りだした幻(マーヤ)であるから、動物も人も、数いる神々さえも、ブラフマンの見ている夢ということになります。ここが、創造主はひとつで他はすべて非創造物という一神教の感性に似ている…気がするのです…
この世のあらゆるものには神性が遍在し漂っているのだから、今しがた通り過ぎた人にも、公園に咲く草花にも、手に持っている鉛筆にも、なんにだって神の一部が内在し、神の力が干渉していることになります。もしそれらが可視化されれば、この世はそれぞれのモノを通した神様の姿だらけになる。あの満員電車のような寺院の神像は、ごく自然な道理で、この世の神秘の正しい姿を表しているいるようにも見えます。
そういう具合に考えてみれば、ヒンドゥー教の寺院に、神様がてんこ盛りにのせられているのはむしろ(宇宙の)宗教摂理をあらわすのに適っている?
(曹洞宗の道元が言う、”仏性”も内容は似ているんじゃないかなぁと思うのですが、人と大自然との霊性の融合を試みた修行僧たちは、大体同じような結論に至っているようです…)
そんな考えに至ったのですが。ヒンドゥー教にもいろいろな考え方があるようですし、
ここに書いたことは、
まぁ、あくまで私の思弁でしかありません。そ~じゃないのかな、とふと思った程度のことですのであしからず。