アニメを観て感情が昂るということ。
「アカメが斬る」てアニメを観てた。
登場人物のひとりマイン
(簡単な感想)―――わりとまじめに進めていきます。(堅苦しかったらゴメンナサイ)
・アニメの中でも刹那さという感情を至高にするなんて日本人的。
・アニメの中に刹那さを盛り込めば作品レベルが上がるのかも。
全体的な感想としてまずこれを思った。
歴代の偉大なアニメを鑑みれば、文化的レベルに達しているものは、日本人的刹那を内包したものが多い…(トトロとか…)
もののあはれ的・不条理的なものもありだと思う。
シェーレは登場人物の一人
「来世があるなら、また会おうね」(シェーレ)
ってなんてやさしい言葉なんだろう。いややさしい救いなんだろう。
輪廻を信じられるなら…
とも思った。
「だれかのお役に立てることがある」
「あなたとわたしの命には限りがある(自覚)」(シェーレ)
↑ 精神を高いところへ引き上げる(ふたつの)条件かもと。アニメを観ながら(しんみりと思う)。
第一話から最終話まで一気に観終わらせてしまうシリーズ作品は夢の中の熱狂体験、、
(ビンジ・ウォッチングと言うのかな?観すぎには注意です)
ふと思ったのが
アニメは、精神レベルが極端に上がったり下がったりする乱高下(らんこうげ)があるからおもしろいのかもと…
まじめな顔…と緊張感を失った顔のギャップが顕著
観る方も飽きてこない。
まぁ、極端なデフォルメですね。
こういうのは小説ではできないし、マンガやアニメの持つ最大の特徴と言っていい。
精神的に大人な人、精神的に子供な人などとは言うけれど…同一人物におけるこうしたギャップはメリハリからか全人間性からかホッと安心できるところがある。
(まじめモードで)
・アニメは、誰もが持つ精神の昇華・退行の伸縮自在性をおもしろ可笑しく表現できる。
・人間という個の中に在る様々な精神のあり方を(アニメとシェアすることで)確認できる。
・共感が得られることによって幼い自分から大人の自分までの通算された(自)存在(ダーザイン)を全体的に刺激してくれる。
(よほど仲の好い間柄の人にしか開放しない部分をアニメやマンガはあっさり開放する)
ただ例外もあって…
例えば、ちびまる子ちゃんでは崇高な精神への高まりは起こらない。平和な時代の小学生ですしね。まぁ、これはしょうがない。(倦怠さやゆるさがないと「ちびまる子」ではなくなってしまう)
(ませてひねたこども目線で見た庶民感情と人間観察)
「北斗の拳」のケンシロウは、精神レベルはほとんど下がらない。多少、怒ったり微笑んだりはするが、ほとんどの時間、無表情で真顔のまま。
超人キャラ(そこがマンガ的なのだけど)なので、けしてデフォルメされた緊張感ゼロのゆるキャラにはならない。まじめさが超個性に昇華している。精神は強敵を前にしてさらに高まる。
メリハリというか、緩急というか。変化をつけられているキャラと。
ブレずにどっちかに振り切っているキャラがありますね。
(おわり)