『鹿』
村野四朗
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして
↑今さら言うまでもなく、ドイツの哲学者ニーチェやハイデカーの哲学思想を見事にトレースした名作。
・死を意識してこそ生は輝く/意味を持つ
・人ははじめなんの存在意義も持たないが時間を重ねていくことにより存在意義を形成していく。(はじめから個性なるものがあるわけではなくつくりあげていくものという主張)
(存在しているだけでいいという仏教的考えとは違う)
大衆小説ではあるが、作家・伊坂幸太郎の『終末のフール』という短編集がある。
八年後、地球に小惑星が衝突することが発表され、そのあと、残り三年となった地球上での
終末の様子が描かれる。これまでに、殺人、暴行、窃盗、自殺など、あらゆる
非人間的・非現実的犯罪が起こったが、(現在では)少し落ち着いた小康状態が、続いている。
破滅の前の一時の全体的な停滞か鬱蒼感とでもいうのか…
だが、決められた近い未来、自分たちが死ぬことは絶対確実である。
同時終焉までの異常な日々が人類に様々な人間性の態度をとらせている、という設定の短編です。
設定のわりに、カジュアルというか、軽いユーモアも帯びてますが。
人々は各自が様々な個性的な態度でのこされた日々を過ごしている。
そこにある理性と狂気の揺らぎの中で、死を身近にして過ごしている。
つまり、全員が村野四朗の『鹿』の状態。空から降ってくる小惑星は、鹿にとっての(猟師の)矢(or鉄砲の玉)。
人間は、「鹿」のように死を意識した後の、悟りのようないさぎよさや、きらきらとした(強い)「生」を身にまとわない者がほとんど…ではある。が、
そこに、結局、実存主義が全人類にふりかかった時のリアルな様子が見て取れる。
矢(or鉄砲の玉)に「生のものさしの意図的な短縮」を創作上つくっている。
※「鹿」は、自然(本能)のままの動物であるなら、逃げるのがふつう。だが、
この鹿は、そこから知性や理性、勇気などをまとい、すべてを悟った、あくまで神ではない
別物へ超越を果たしている。
(状況、心境として)
ずいぶんつらいが、どん底の暗い海底で、深海魚が自らの力で光を放つように(誰の言葉だっけ?)、あくまで力強い意志を持ち、ぐっとこらえている。
ヘミングウェーや村上春樹の小説のように、まわりがひどい状況でも主人公は、
意外と強く、むしろ強靱な肉体と精神でいる。
(小説内で肉体を鍛えたりしている)
「書く」という行為についてもこういう態度は言える。↓
(あくまで、「書く」という行為と持続について思ったことだけど……)
ただ深海の闇の水圧に圧縮されながら醜い精神の様態となっても、自ら光を発する、
なんていうのは、イメージ的にも、ちょっとつらすぎるところがあるかな。
海から吊り上げたら、たいてい、深海魚ってグロテスクじゃないですか。
→自分の心なんて可視化してみるものではない。表面ぼこぼこで醜い深海魚なのかも。
今はもっと軽い。悪い意味じゃなくて、もっと時代的に。リアルな意味で。もっと軽薄で、
別の意味で闇だしひどくもある。
もちろん、共鳴する部分もあるけどね。
実存主義の衰退
実存主義自体、戦後の悲愴感や社会の崩壊による、個人を自立させて
生きていく状況では、絵にしても、詩にしてもよく映えたが、
そのままでは新しい時代にそぐわなくなるのも必然で。
時代は別のバリエーションを望んでいたのは否めない。
けれど、なんでもそうだけど、古くなったからといって
いつの時代にも当てはまる真理がある以上、まるごと
捨て去るようなことは、好まない。どこかの別思想に共生して
生き続けててもいいと思う。
まぁ伊坂さんは、実存主義とかそんな言葉を知らない読者にも、実際の状況として、
その主張する本質のところを、考えさせていますね。
絵でいうと、鶴岡政男というひとのとかになるのかな。
↓(『重たい手』という作品とか)
苦しい。おもい。
戦後ってこんなのか。まぁ、異端的な方なのかな。
まぁ、そのままではいくらなんでも時代が出す意識が違いすぎるけど、
現在でもなんとなくわかる部分がある。
もう少し、時代が推移しているのだから、そのまま
受け入れることはできない。だけど、部分ではわかる、くらいのニュアンスかな。