ダジャレかるた
「パパ、ダジャレかるた作ってるねん!」
朝、リビングで長女が何やら真剣な表情で作業をしていた。
近づいてみると、
厚紙を四角く切り揃えたもの が机の上に積まれている。
「ダジャレかるたって、どういうこと?」
聞いてみると、
「あいうえおでダジャレを作って、かるたにしたいねん!」
とのこと。
なるほど。
五十音それぞれに
ダジャレを考えて、
かるたにするということらしい。
聞く前から想像はついてたけど(笑
「くじらのくじ引き、これダジャレになってる?」
長女は、
思いついたフレーズがダジャレになっているかを
何度も確認してきた。
ダジャレの定義が曖昧なようだった。
でも、その真剣な表情が面白かった。
子どもって、こんなことに真剣になれるのだなという。
「け」のダジャレが思い浮かばない問題
そんな感じで
順調にかるた作りが進むかと思いきや、
突然手が止まった。
「……け、が思い浮かばへん……」
「け?」
どうやら、
「け」から始まるダジャレが思いつかないらしい。
「”け”は飛ばして、”こ”だったり他の思い浮かぶものから作ったら?」
そう提案してみた。
「うーん……わかった。でも、けを考えたいねんなぁ……」
納得がいかない様子。
「それなら、一度”け”で始まるものを紙に書いてみたら?」
「え? 紙に書いてくの?」
「そう。頭で考えるだけじゃ思い浮かばないんでしょ?それなら、まずは書き出してみたらどう?」
「ふーん……」
長女は、あまりピンときていないようだった。
しばらくして長女の様子を見に行くと、
やっぱり手が止まっていた。
「相手を動かすには」
ここでボクは気づいた。
「あぁ、自分が良いと思った方法をどれだけ伝えても、
本人の中で腑に落ちなければ実践してくれないんだ。」
そういえば、
ボクが 「この本、すごくいいよ!」 と勧めても、
実際に読んでくれる人はほとんどいなかったっけな。
子どもの頃のボクも同じだった。
「勉強しておかないと、大人になって後悔するぞ!」
親からそう言われても、 「ふーん」 くらいにしか思っていなかった。
だから、
そこまで勉強に価値を感じなかった。
結果、 大学受験で浪人して、後悔した。
「じゃあ、一緒にやってみよう」
それなら、 まずは一緒にやってみよう。
ボクはそう考え、長女に声をかけた。
「よし、一緒に”け”で始まる言葉を考えてみようぜ~!」
「パパ書いてくれるんやな!いいで!」
「もちろん。まずは”け”で始まるものを言ってみて?」
「えっと……けむし?」
「おぉ、それ思いつかんかった! じゃあ、”けむし”って書くでね」
ボクが紙に書く。
「他には?」
「けしゴム!」
「おっ、いいね!」
「けんか!」
「おー、いいねぇ!」
そんな感じで、
どんどん書き出していった。
そして――
「よし! ちょっと思いつかんようになったな。
じゃあ、次はこの紙に書いたやつからダジャレになりそうなものを考えてみよう!」
「うん!」
すると、
さっきまで 「うーん……」 と悩んでいた長女が、
次々とダジャレを作り始めた。
「けむしがケムッと驚く!」
「けんかするといけんから!」
ダジャレが成立してない案も沢山あったけど、
めちゃくちゃ楽しそうだった。
そして、ボクが言わなくても、長女は自分で紙に書きながら考え始めた。
「自分で気づくことの大切さ」
この経験から、
ボクは改めて
「指示するだけでは人は動かない」
ということを実感した。
正論であろうが、
どれだけ良いアドバイスだろうが、
相手の中に腑に落ちていなければ、
実践してくれない。
これは子育てにも、
仕事にも、
人間関係にも共通することだ。
まさに、
山本五十六の言葉どおり。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
親はつい、
「ちゃんとやりなさい!」
「教えたでしょ!」
「なんで言った通りにやらないの?!」
と言葉だけで伝えようとしがちだ。
ボクはそう親に言われて育ってきた。
でも、
それだけでは人は動かない。
「一緒にやってみる」
たったそれだけのことで、
人は自分事として学ぶことができる。
この日、
長女が楽しそうにダジャレを作る姿を見て、
改めてその大切さを実感した。
