もう、あれから14年経つのですね。

私は関東住まいですが、あの日のことは忘れられません。

 

あの日はちょうど副業先で、生徒の親御さんと面談をしている最中でした。

「中3になるので成績をキープしていけるように」云々かんぬん

「そうですよね」

グラグラ・・・

「あれ?地震ですかね?」

「ほんとですね」

ぐーらぐーら。ぐわんぐわん

「机の下にとりあえず潜りましょう」

 

保護者の方と共に机の下に潜る。

まず、外に出る方が危険な場所(看板あるし、前は渋滞しがちな片側1車線道路)

「うわ、こわいこわいこわい」(私)

机の下に潜るときは、机の脚を押さえろ、と、言われ続けてきましたが、本当に押さえていないと動く(;´Д`)

この時の保護者の方が、確か秋田県の出身の方で、日本海中部地震を体験されていて揺れている最中も落ち着いていらっしゃる(有り難かった)

勤務先のビルは停電になりまして、非常灯がつきました。

この揺れがとにかく長かった。

 

揺れが収まって、保護者の方を帰して、ドアを開けっぱなしにして、目の前の道路を見たら信号が止まってる・・・

同じビルの上階の大家さんに安否確認をされて、つくづく生徒が来る時間帯で無くて良かったと思ったモノです。

信号機は止まっていたのですが、その交差点は「ガソリンスタンド」「スーパーマーケット」「中古車販売」が角にある立地。中古車販売の方がパイロンを並べ、ガソスタの店員さんが車を誘導し、スーパーの店長さんが拡声器で車に指示。

なんと、強力な布陣でしょう。地元の結束力ってすごい、と見つめていたら、その間にも余震。

確か最初の揺れから30分ほどでまた揺れ。これが大きかった(茨城県沖)

 

古いビルだったので、崩れたら大変!とドキドキしたのを覚えています。

実家に電話をして、無事を確認し(なかなか繋がらなかった)

当時はブラック企業に勤めていたダンナは営業車で営業中で、これまた無事が確認できました。

 

その時はモバイルバッテリーもなく、何が起きたのかすら分かっていませんでした。

16:00頃、大家さんからことの詳細を聞きます。

これは・・・

何かとてつもなく大変なことが起きたのだと思いました。

 

ダンナと連絡が取れて、営業車のまま直帰になったので「拾っていくよ」

助かった・・・

徒歩なら数時間かかりそうな勤務先だったので、待つ、が寒い!

その日、ベンチコートをたまたま着ていて良かったです。

この停電に関しては、道路を挟んだ北側は停電していなくて、南側が全滅でした。

17:00頃、本部に連絡をして帰る旨を伝えると、本部は停電地域ではなく、温度差がすごかった(;´Д`)

18:00近くにダンナに拾って貰って、通常なら20分くらいの道のりを3時間かけて帰りました。車に乗っていたダンナの方が情報量が多くて、津波で大変な被害が東北地方に起きていること、その間にも繋がりにくい実家からも電話があり安否確認の嵐。

 

私の亡き母は北海道の地震の少ない地域の出身なので、地震が苦手です。母は心配だけれど、私も私でアパートが心配なので、母のことは父に任せて21時頃帰宅。

自宅アパートは幸いなことに停電になっていなかったし、食器棚なども大丈夫。

 

ホッ

 

しかし、私の部屋に飾ってあった、エヴァンゲリオン初号機、0号機、2号機のプラモデルが、無残にも転がり落ちていました。゚(゚´Д`゚)゚。

落ち所が悪く、あちこちパッキリと・・・

 

TVをつけた後のショックはすごかったです。その間にも余震が訪れて。

 

福島第一原発の話、津波で家を流された話。

パニック障害を持っている私は、凄惨な映像は繰り返しみてはいけない、と医師から言われています。調整しながらニュースを見ていました。

 

あの地震で犠牲になった方に合掌。

そして、救助活動などをしてくれていた方々に、感謝を。

 

14年と言うことは、あの地震をハッキリと記憶しているのは当時10歳以上だったとして20代より上の人たちになるのですね。

天災はいつどこで起きるか分からない。

忘れないでいようと思います。