さて、T大学病院へ転院した母です。

悪性リンパ腫でも、胃MALTリンパ腫(ステージⅡ)病巣が1つだったので、放射線治療を提案されます。ここの血液内科の先生はとても優しい先生でした(1度しか会ってないけど)

放射線治療の後、経過観察をして抗がん剤治療へ移行するかどうか決めましょう、とのこと。

この病院、当時はすごく古くて、全体的に暗い、怖い、何かが出そうな気がする(今は新築したので、めっちゃ近代的な病院になった)

 

放射線治療は、実家から40分くらいの場所なので

「通院しますか?」

と聞かれて、頷きそうになった母に私が口を出します。副作用のあるものですし、家に帰ってきたらスーパー専業主婦の母がじっとしていないのは、火を見るより明らか。

「父さん、入院した方が保険が多く下りるよ?」

「母さん、入院した方が父さんも安心だよ?」

などなどなど(笑)

うちは両親とも、民間のがん保険に入っていて、そこそこ、いやかなり下りるだろうということは調査済み。なんならお釣りが来るだけ下りるであろう。

(それだけ掛け金も高い(;´Д`)

 

というわけで、母は入院することになりました。

父は既に退官していて、嘱託で週に1~2回出勤していた頃だったと思います。

 

まずは父にお米の炊き方、お洗濯の仕方、お掃除の仕方、近くのスーパーでの買い物の仕方を母と教えました。

あと、母には実家にある大事なモノの在処を教えて貰いました。家の権利書とか。

保険関係は父がとても細かい性格なので、そちらは父に任せます。はい、私は苦手です。事務ワークは出来ません(キッパリ)

これだけは、「そっくり性格」の父の遺伝子を分けて貰いたかったです。

 

T大学病院に入院して、何度か足を運んだのですが

「病室までは入ってこなくていい」

と母が言うんですね。大部屋だったのですが、認知症の方がいらして、ちょっと大変だったらしいです。゚(゚´Д`゚)゚。

 

T病院分院では、オーラがまばゆいほどの看護師さんや医師に囲まれていたせいか、T大学病院ではさまざまなエピソードがあったそうです。

 

○担当医

殆ど顔を出さず、研修医ばかりが来る(大学病院あるある・・・なの?)

 

○放射線科医

とーーっても良い人だったそうです。むしろ内科の担当医より頼りになったとのこと。放射線科は看護師さんもとても頼れる方ばかりだったそうです。

 

○大部屋

買って置いてあるヨーグルトとか、名前を書いていても無くなる。途中から諦めたそうです。

食事の時間にポータブルトイレを使われるおばあさまがいたらしく、それには困ったらしい(そりゃそうでしょう(゜Д゜;)

看護師さんが止めてはくださるものの、これは入院中ずっとだったそう。

 

○看護師さん

夜勤の看護師さんが(母曰く、とっても派手な出で立ちの方だったとか)、早朝4:30頃ナースワゴンを盛大にひっくり返し、入院患者が総出で起きてきた(笑)

血液を採るのに四苦八苦したあげく、師長さんを呼んできた(;´Д`)

など、すごくレベル差があったみたいです。

大病院 あるあるなのでしょうか?

 

 

放射線の副作用で、母は食欲ががっつりと落ちたのですが、副作用の吐き気止め(と母は言っていた)がキウィ味で、それがなんともビミョーだったそう。以来、キウィがあまり好きで無くなったとか(;´Д`)

でも食べないといけない!

だが病院食は頑張ろうとしても、白米が喉を通らない!

お蕎麦なら食べられそう→外出許可を貰って近くのお蕎麦屋さんに行き、小盛りのお蕎麦を食す。

 

父も何度か病院に足を運んでいますが、同室の方に気を遣ってやはり談話室での面会。

食欲減退以外の重篤な副作用はなかったのですが、母ラブの父は、「まだ死なないでくれよ」と何度も母に言っていたそうです。

それで母も食べられるものをなんとか食べて頑張ったのでしょう。

 

私も各種論文などを調べに調べ、悪性リンパ腫の中でも、胃MALTでなおかつ病巣が1つ、きっと母なら乗り越えてくれるに違いない、と思っていました。

そして3週間弱の入院後、母は帰宅します。


その後の父の変貌ぶり。

お料理→母が食欲が戻っていないので、母の気分転換もかねて2人でお買い物。

お布団上げ、お布団敷き→父が率先してやる、なんなら母がやろうとすると怒る(笑)

お洗濯→父が干す

 

いや、人間は変わるものなのですね。

この母の病気から、父は完全退職して、母の寛解後、2人で夢だったスイス旅行などをしています。


放射線治療が終わり、次の検査日、抗がん剤治療は「してもしなくても・・・」だったので、「しない」という選択をしています。

2ヶ月に1度の検診、そして1年はその生活をして、1年後に母の悪性リンパ腫は「寛解」ということになりました。

 

病名が分からない時が一番ドキドキしました。これは母も同じようで、病名が分かれば覚悟や立ち向かう気持ちも生まれようモノですが、分からないのはどうしようもない。


 一番ホッとしていたのは、父だったことでしょう。