1/20に県立がんセンターに入院した父ですが、貧血がひどく輸血と再度の胆管ステント。その頃は痛みもかなりあったようです。

ターミナルケアの同意書を書き、病棟が空くのが1週間先ということもありましたが、その時の治療は既に緩和ケアに入っていました。

入院している母を連れて、ダンナに車を出して貰ってお見舞いに行ったり、話を聞いたOBの方々がお見舞いに来てくださったり、母は

「私が病気になんてならなかったら・・・」

とずっと悔やんでいました。

 

父は昨年電話で大げんかした父の実兄に再度連絡を取り、お見舞いに1/30に来てくれることになったそうです。これは私も後押しをしていて、言葉の行き違いだったと思うよ、と何度も言いました。父の兄夫妻と弟が来てくれることになったんだ、と話してくれました。妹は闘病中で来られないけれど、電話で話したようです。

 

私は、母の病院でのインフォームドコンセントで1/29にリハビリ病院に転院が決まって転院先の病院との面会をしたり、県立がんセンターに行ったり、正直、仕事が夜型で良かった、と思いつつ、今でもあの時は何をどう処理していたのか?と謎に思うほどのスケジュールでした。

父が、胸焼けと痛みが強く、私にヘルプメールが来たときは

「父さん、ナースコールを押しなはれ」

とメールを返しました(笑)

それでも心配だった私は、ソーシャルワーカーのFさんに電話をかけ、一応相談しています。Fさんは、すぐに父の病室に行ってくださったようで、痛み止めを入れてもらい「嘘のように痛くなくなった」

とメールをくれました。

 

1/29に母をリハビリ病院に届けて、そこの師長さんと話している最中に県立がんセンターから電話がありました。

「朝から血圧が低く、出来ればご家族の方に来て貰いたい」

目の前には、一人では動けない母。

え?!どうしよう。

ダンナにメールをしたら、「早退してお母さんは僕が連れて行く」

と言ってくれたので、母には詳細は話さずに、すぐにがんセンターへ向かいました。電車で1.5時間の距離にあるのが少しもどかしかったです。

 

がんセンターに着いたら、父は個室に移されていました。とはいえ、まだ会話は出来る状態で、看護師さんから説明を受けました。

「血圧が上がらず、もし会わせたい方がいたら呼んでください」

1~2時間に一度吐血して処置をして貰っていて、その後暖かいおしぼりで口周りを拭いてあげたり、ハッキリ言って小心者の私は心臓がバクバク言っていました。パニック障害の発作が起きそうだったのでお薬を飲みながら、父と話をしていました。

「会いたい人はいるか?」

なんて聞けずに。

タオルを持ってこようと思って個室を出た時、ソーシャルワーカーのFさんと会いました。父の様子を見に来てくれたようです。

背中にそっと手を当てられた時、それまで一度も出なかった涙が溢れてしまい、

「ごめんなさい、情けない、私」

と言って涙を拭った私に

「いいんです、辛くて当たり前です。泣いてくれていいんですよ?」

我が家の状況(母が入院中)をよく知ってくださっていたFさんの手の温かさに、思わず泣いてしまいましたが、泣いている場合ではありません。なんなら一番泣きたいのは父でしょう。

夕方になり、ダンナが母を連れてきてくれました。リハビリ病院に転院したその日に「外出届」を出すことに難色を示されました。

いや、母の伴侶が危ないと言うときに、難色を示されても困るんだけど・・・とリハビリ病院をちょっぴり恨んだ(担当医が難色を示した、看護師さんは理解してくれた)ものです。

 

さて、母が到着して、念のため母のベッドも用意して頂きました。

父が吐血するたびに、私のお世話は普通に受けるのに(口をいーってして?など)母のお世話は「いいよ、やらなくて」って言うんですよ。私の勝手な解釈ですが、父の「男としての矜持」だった気もします。母のことを何より気にかけていたので、負担をかけたくなかったのでしょう。

 

夜になり、再度看護師さんから「会いたい人がいれば」と伝えられます。

なんなら、吐血以外は会話も出来るし、実感がわかない。

 

後に医療従事者の数人に話を聞いたところ、「なんとなく分かる」のだそうです。

 

午後9:00頃だったでしょうか。私は父のOBの一人に電話をかけました。その方は父が仲人をした方でしたし、県立がんセンターの割と近くに住んでいらっしゃることもあり

「父があまりよくない状況なので、ご都合がつけばいらして頂けるとうれしいです」

父が教職に就いてすぐに受け持った教え子なので、父とは年齢が5~6歳しか離れていません。その方のお宅には90歳を超えるお母さんも一緒に暮らしているので、無理は言えなかったのですが、午後10時頃には病院に来てくださいました。

これが心強かったこと。

父に

「○○さん来てくださったよ」

と伝えたら

「おう、悪いな」

と。

ご夫妻でいらしたのですが、日付をまたぐ頃、奥様の方はお母さんがいらっしゃるのでお帰りになりました。

OBのSさん、母、ダンナ、私。4人で父を見守ります。吐血をした際はナースコールをして、私が顔を拭いて、Sさんがベッドの高さや位置を調節してくださって。

ただ、やはり病院の性質上、ナースコールから看護師さんがいらっしゃるのは遅かったです。

母を横にならせたのですが、父の近くにいてずっと手を握っていました。

そして、明け方、午前3:30。父が私に

「おい、今何時だ?」

「んーとね、3:30」

「朝までまだか・・・苦しいな、こんなに苦しいのか・・・」

それが最期の言葉でした。その30分後、血圧が急激に下がった影響で、大量の吐血をしました。

 

実は、私は昼間に意思確認をされています。もしもの時に、どこまで延命をするか?です。心臓の切開をしてまで心臓マッサージをするのか、とかです。それは全部お断りしています。モルヒネで痛みはないにしても、もうこれ以上頑張れ、なんて言えなかったです。

 

看護師さんが2人来て、ナースステーションで確認出来る心臓の動きなどを確認してくれて、

「声をかけてあげてください」

 

「先生!!」Sさん

「お義父さん!!」ダンナ

「○○ちゃん(父の愛称)、もう一回旅行に行こうって言ったじゃない!○○ちゃん!!」母

「父さん、もう、がんばらなくていいよ・・・母さんは、私がちゃんと見てるから・・・」私

この時の母が(後に笑い話になりましたが)般若のような顔で

「私の幸せは私が決める!」

怖かった(>o<)ほんっとに怖かった。

私にとっては父、母にとっては最愛の夫、そうですよね。母の気持ちも今ならば分かります。

そして、午前4:00過ぎに心臓停止が確認されました。

「亡くなっても、声は聞こえています、お声をかけてあげてください」

母の

「○○ちゃん、私を置いていかないで・・・」

もう、私は声も涙も出なかったです。夫婦仲良く、いろんな事を乗り越えてきた絆は娘の私には計り知れないものがあるのでしょう。

 

そして家族だけにしてくれてあと5:00頃に医師が来て、死亡確認をしてくださいました。その後、一度家族は病室からでて処置をして頂いている間、Sさんとダンナに母を任せて、病院の外に出ました。ものすごい綺麗な朝焼けでした。

父は亡くなったあと、苦しそうな顔が一転して口角があがった綺麗な顔でした。

 

私は、父の実兄、父の弟に電話をかけました。実兄のうちは奥さん(私にしてみれば叔母)が出たのですが、ちょうど今日、1/30にお見舞いに来る予定だったので、かなり動揺されていました。

冬の清冽な空気、あまりにも綺麗な夜明け、それでも涙はみじんも出ず、しっかりしなきゃ、と思えました。