2019年の1月に「十二指腸乳頭部がん」であることが判明し、既に肺に転移していて手術対応外と告げられた父。

それでも戦うと決めて、抗がん剤治療を続けていて、セカンドオピニオンで12月の初めに名古屋の胆道がんの権威にも診てもらったけれど、所見は同じだった父から実家に招集がかかりました。

母は10月に脳幹血腫で入院していたのですが、退院してY総合病院にリハビリに通っている状態。

「出来るだけのことはやったが、俺はもうそう長くはない。母さんの年金は貰っていた1/2近くは出るだろう(具体的な数値を言う)から、母さんのことを頼むな」

と言われました。

母は、「そんなことを言わないで、元気にもう一度なろう」と言っていました。

 

私は父と性格が似ています。なんとなく、父が覚悟を決めて家族会議をしているのに、可能性の低い希望的観測が言うのが嫌で

「父さん、うち、お墓、ないじゃない?」

「そうだった!」

父の親のお墓は遠方にありますが、次男である父にはお墓がない。そして、私も結婚していても子どもがいない。

「永代供養のところで、こういうのがいいな、ってある?」

「あれ、なんか最近流行ってるらしいじゃん、TVで見たんだよ、樹木葬。あれもいいなぁ」

「そっか。分かった」

 

父の病気が分かり、どんなに抗がん剤が効いたとしても当初の余命は6ヶ月。今は11ヶ月経っています。どこかで「あれほど元気な父がまだ74歳なのに亡くなるわけない」と思っていたのですが、調べれば調べるほど医療には限界があることを思い知らされた私は、それなら父が痛くないよう、苦しくないよう、ターミナルケアを考えていたのも事実です。

8月に緊急搬送されて輸血をしたり、その夏を乗り越えて、頑張って来た父の望みは全部かなえたい。

当時は2020年に東京オリンピックが開催されることになっていて、サッカーのチケットが当選していた父。借金してでも、ヘリをチャーターしてでも、オリンピックの会場まで行くよ!!、なんて言ったら、ケラケラと笑ってくれました。

11月は精神的に不安定だった父ですが、名古屋でのセカンドオピニオン後、憑きものが落ちたように穏やかになったと思います。

 

「とにかく、母さんのこと、頼むよ」

「うん」

 

若くして結婚して、夫婦げんかはあったものの50年の結婚生活で終始ラブラブだった両親。母の胸のうちはきっと複雑だったでしょう。遺していく母が心配で、私にそれを託した父。涙は出ませんでした。それよりも母を守らなければ、と責任が託された重さがありました。

 

家族会議のあと、私はあらゆる永代供養のお墓探しに入りました。

 

父は、教え子(と言っても父とは4~5歳差)の一人に連絡をして、自身の病気と教え子(以後OBと記載)に連絡するならしてほしいとお願いしていたことを後に知ります。

 

そんな12月の2週目、母の脳幹血腫がまた出血を起こし、病院に搬送されました。10月の時には無理を言ってさっさと退院してきた母ですが、今回ばかりはY総合病院のY先生は「いいと言うまでは入院して頂きます」ときっぱり。

 

・・・10月の時は父はまだ自分の身の回りのことはある程度出来ていましたが、今回はそうもいきません。

介護事業所に連絡を取り、ショートステイをお願いできるか打診しました。

(始めはあまり良い印象ではなかった事業所ですが、県立がんセンターのFさんとY総合病院のHさんというソーシャルワーカーさんが代わる代わる電話をしてくれて、こちらの話をよく聞いてくれるようになりました)

父には、「私のために、ショートステイにしばらく入ってほしい」とお願いしたら、難色を示すかと思った父がまさかのOK。有り難かったです。

仕事が休めれば良かったのですが、繁忙期で、代役も立てられず、父には申し訳ないことをしたなぁ、と思います。

 

ショートステイは、私の自宅から1駅、徒歩15分くらいの場所で、価格は高くなるものの個室の所を選びました。

そこの所長さんは父とスポーツの話で盛り上がっていて、療法士さんと一緒に歩いてみたりしたようです。

下着などはレンタルしたのですが、上はともかく、下がまさかの「白ブリーフ」

(;´Д`)

さすがにどうかと思ったので、洗濯物は私が自宅で洗って届ける形にしました(その間にも母の病院、お洗濯ものがある)

ショートステイは認知症の方が多かった印象です。綺麗な施設でしたが、寝たきりであろう方が談話室でTVの音に耳を傾けていたり、認知症の方が大きな声を出していたり、個室にして良かった、と思いました。食事も刻み食にして頂いたりしました。この頃、もう食欲はずいぶん落ちていたのですが、おせんべいだけはポリポリとかじっていました(笑)

父のショートステイに3日に一度顔を出し、母の病院の洗濯物を届けたり、県立がんセンターの年内最後の診察に付き添ったり。

がんセンターのS先生に、父はこう言われます。

「好きな物を召し上がってください」

「お酒もですか?」

「ええ、飲めるようなら、少しなら」

「やった!!」

お酒好きな父は、ニコニコしていました。

 

1/1と1/2はショートステイが空いていなかったので、実家に父が帰ってきます。

1/1は私とダンナで赴き、父が食べられそうなものを作り、お酒を飲みたい、というので父の好きな小澤酒造さんのお酒を買ってきて、3人で食卓を囲みました。

ダンナに「俺の背広とか、着られないよなー」

なんて言って着させていましたが、父は中肉中背、ダンナは183センチの長身なので、袖や裾がつんつるてんで、父と私と大笑いしました。

 

1/2は母の入院しているY総合病院に顔を出して、お見舞い。

 

ショートステイに戻った後も通院があったのですが、父のOBの方々に大変お世話になりました。OBの1人に自身の病気のことを話した父ですが、その方が数人に声をかけて「○○ちゃんは一人っ子だし、奥さんも入院しているから、体が空いている人は協力してほしい」と声をかけてくだささいました。OBは私が幼い頃からよく家に遊びに来ていて、私もお名前や顔を知っている方も多いです。

 

なんせ、私の仕事が超繁忙期に入っていて、なおかつ母の病院にも行かねばらななかったり、体が空かない。

父の病院への送迎をOBの方々で結成した「8人の侍」で代わる代わる行ってくれたり、感謝してもし切れません。病院の帰り道、OB達と過ごして気分が良くなった父が食べすぎたり、とは今では微笑ましい話です。

1/15は母の誕生日だったので、父から「お花を送るように」と言われ、母の病室に届けたあと、ショートステイに行き写真を見せたら

「母さん、喜んでた?」

「それはそれはものすごく」

「ならよし」

そんな父の顔を今でも思い出せます。

 

しかし、病魔は確実に父の体力を奪っていて、1/20、ショートステイで大量の吐血をして、所長さんが車で県立がんセンターまで搬送してくださいました。即入院になり、輸血、再度の胆管ドレナージでステントを入れて、ターミナルケアの同意書を書くことになります。