2019年、10月の初旬、朝から電話があり母でした。父に何か?!と思っていたら

「朝から左足の動きが悪い」

と母自身のことでした。母についてはまた別途上げるのですが、父はステントを入れてから少し体調が上向きになっていたとはいえ、抗がん剤治療中で、母を連れて「整形外科」へ行きました。そこでは問題がなく、母も痛いとかではない、というので、1日様子を見たらどうか?と告げました。

その日、父が、「おかしい」と思ったらしく、翌日、近くのY総合病院に行ったら、まさかの脳疾患。血圧が190を超えていたらしく即入院になりました(母自身から電話があり)

仕事を途中で上がらせて貰って、ダンナと一緒にまず実家に行き、父と顔を合わせ、入院に必要なものをとりあえずはかき集め、病院に向かいます。「海綿状脳幹血腫」という診断でしばらくは入院になるとのこと。

 

父がそれまで受けていた介護は「訪問看護」のみ。仕事が休めない時期で、私も動けない。

介護事業所に電話をかけたのですが、そこの対応が、まぁ、ひどかったこと(出たのはいつものケアマネさんでも受付さんでもなく、所長(;´Д`)

「それで、どうしろと?!」

のような対応に、かっちーん!と来た私。

だがしかし、何をどうして良いかの知恵もない(ああ、もう)県立がんセンターのソーシャルワーカーのFさんに電話でご相談したところ。

「私からご連絡を入れます」

と。

しばらくしてすぐに折り返しの電話が事業所から来まして、態度が全然違うの(笑)

週1度の訪問看護に、週2度のヘルパーさん、そして介護ベッドを手配して頂くこととなりました。

 

10月は、仕事の合間に実家に行き、父の身の回りのことをしたり、食事をストックして、母の入院している病院から洗濯物を受け取って、のような目まぐるしい日々でした。

ただ、父がまだ自力で動けたことが幸いです。

抗がん剤の副作用もあったと思いますが、我慢強い父は泣き言は言わなかったです。

 

食事だけはヘルパーさんが来る日は作って貰っていたのですが、お粥を作るのに炊飯器を使って、べったんべったんのお粥だったり、柔らかいお肉のお買い物を頼んだらステーキ肉だったり・・・と、申し訳ないけれどあまり戦力にならなかったのは否定しません(こちらも母のこともあって、あまりコミュニケーションが取れていなかったのも事実。でも、介護事業所ともあまり連携していなかった(;´Д`)

冷食(柔らかい介護食)を頼んだのですが、父が嫌がる(;。;)

仕方ないので、タッパーをたらふく買って、ご飯は自分で炊けたので、柔らかめに炊くように言って、おかずはタッパーに2日分つめて「食べたいのだけ食べてね」とお料理して置いて来ていました。

ちなみに私の作ったものの中で、「卵焼き」「柔らか鶏肉煮」「ぽろぽろ牛肉」をよく食べてくれました。

病気が消化器官なので、食べてはいけない物が多く、麺類はうどん以外は絶対に駄目、と言われました。

 

そんな中、父の病院があり、ダンナに車を出して貰いました。

比較的落ち着いていた9,10月ですが、腫瘍マーカー値が再び上がり始めている所見でした。

 

S-1が既に効かなくなっていて、これ以上抗がん剤を続けても、副作用で辛いだけではないかとの提案でした。

10月の半ばだったのですが、父も少し考え込む感じでした。

その時までに、父は誰にも病気のことを話していなくて、父には兄、弟、妹がいて、なおかつ仕事柄教え子がたくさんいます。

10月の下旬、無理矢理退院してきた母と何らかの会話があったかもしれませんが、実兄に伝えることにしたようで、そこで言葉の行き違いがあって、実兄と電話で大げんかしたらしいです。

「俺に何があっても、兄貴には言わなくていい」

と私に告げました。

※おじさんはこのことでひどく落ち込んでいた、とは後の話

母は、左に軽く麻痺と構音障害がありましたが、父のことが心配で退院してきてしまいました。

 

11月、最期の抗がん剤を服用して、この頃が父が一番精神的に不安定になっていたように思います。母へのあたりがキツい。

母も不自由な体で懸命にお世話しているのですが、ちょっとしたことで声を荒げる。

もともと父は、怒っていても怒鳴ることはなく、静かに怒るタイプで、子どもの頃の私は悪さをして父に「ここに座りなさい」

と言われただけで、「ごめんなさい!!」

と謝るくらい静かな怒りが怖いタイプ。

私が一緒の時には、やんわりと窘めれば収まるのですが・・・

ここで、やはりしばらく実家に帰り、実家から仕事に通おうかと思っていたのですが、まさかのダンナの大反対。

私の実親なので、それについては協力はしてくれても反対することはなかったダンナ。

10月から、私が切羽詰まった顔で、めちゃくちゃ疲弊していた顔をしていたらしいです。私自身がパニック障害も持っているので、頓服のソラナックスの服用が多かったのもこの頃です。

 

母も要介護認定をお願いして、要支援が下りましたが、ヘルパーさんは母が退院した時点で止めました。

11月の中旬、父は、大学の同期に病気のことを話し、「一度、自分が手術して貰った医師にみてもらったらどうか」と言われます。その同期の方は何度かがんを煩っていて、名古屋では胆道がんの権威と言うことでした。その方は中部地方に住んでいらして、その先生へ話をつけてくださったようです。セカンドオピニオンの形を取って、県立がんセンターでも紹介状を書いて頂きました。

 

母はもちろん同行できないし、私も難しい、父の後輩の方が割と近くに住んでいらして、名古屋までは介助してくださることになりました。車はダンナがだしてくれて、新横浜駅まで見送り。

12月の始め、この頃はちょっとふらつくことも多かった父は車椅子に乗って、私とダンナ、母に見送られ、名古屋に行きました。帰りの迎えもダンナにお願いしていて(感謝)

 

その先生の診断は、「肺に遠隔転移しているのと、場所が胆道なので、手術は出来ない」

県立がんセンターと同じ診断でした。

 

名古屋から帰ってきた翌日、だったか。

父から「ちょっと3人で話したい」と実家に呼ばれました。