これから、ご両親や身近な方の病気に直面して、大変な思いをされる方もいらっしゃると思います。
そのために、というわけではないですし、私個人の備忘録にも近いので、亡き父の病気や、治療、彼岸へ送るまでを綴っていきたいと思います。
私は一人娘で、夫婦仲(もちろん家族仲)はとてもよく、娘の私は「グリコのおまけ」程度、とよく冗談で言っていたのですが、父と私はとても性格がよく似ており、ダンナと結婚した際は
「のんびりしたダンナだなぁ」
なんて言っていました。
「いや、キレッキレのダンナなら、私と結婚してないよ?」
「それもそうだ!」
と笑い合ったのを覚えています。いわゆる思春期に「お父さんのパンツと一緒に洗わないで!」なんてこともなく、かといって父も私を甘やかすこともなく、私も父に甘えることもなく、叱られたのは小学生でピンポンダッシュをした時にゲンコツを1回、くらいだったかな。(そら、怒られますがな笑)
大人になってからは「筋を通すこと」を教えられ、実践してきたつもりです。
父は、健康に大変気を遣っている人で、退職してからも近くの子どもたちにスポーツを教えたり、自身もウォーキングを欠かさず、なおかつ年に2回の健康診断も欠かしませんでした。
現役中に、怪我で1ヶ月、心の風邪で1ヶ月入院経験はあるものの、70歳を過ぎて「少し血圧が気になるくらい」だったのです。
とはいえ、高齢になれば、血圧は少し上がるものですし、お酒はそこそこたしなみますが、煙草は20代の時に止めています。
2019年、お正月の恒例で、両親と私、ダンナの4人で食事に行ったのですが、その時も特に気になることはなく、食欲も旺盛でした。
1月の末、母から突然電話が来て「お父さんが入院することになった」
「は?!」
インフォームドコンセントに付き添ってほしい、ということで、実家近くの総合病院に慌てて行きました。
そこで告げられたのが、肝機能値が爆上がりしていて、黄疸が出ていたこと。今は薬で下げていること。
実際に、父は年中スポーツをしていたので、日焼けしていたんですね。まさか黄疸なんて思わず。
父の健康診断を毎回担当してくださっている消化器の先生が
「十二指腸乳頭部がんで、遠隔転移もしています」
この時、父も母も、まだ実感がわいていなかったように思います。
入院している父は、その時も病院の階段をえっさほいさ昇降していましたが、よくよく顔を見ると、白い。
日焼けだと思っていたのは黄疸だったのか、と私もびっくりしました。
この時点で既に、ステージは4b。
毎年2回も健康診断を受けていて、って思わず思ってしまいましたが、見つけづらい場所だったらしく(細胞検査もしていたが、”病巣に当たらない”と見つからない)
「毎回検査をしていたのに、悔しいです、申し訳ないです」
Y総合病院のT先生、私達に向かって頭を下げてくださいました。
イマドキは、本人にも告知するのがデフォですが、本人告知の前に、私と母がそれを聞きました。
父は自分で何事も決めるタイプで(他人の意見を聞かないという意味ではない)、Y総合病院では稀少がんである専門医がいないこともあり、転院することになりました。
県立がんセンター。
ここの消化器内科「肝・胆・膵」科での診断も同じで、担当はS先生という結構お若い先生でした。
「遠隔転移をしているので、手術適応外です。抗がん剤を中心に治療を進めても、6ヶ月くらいの延命になると考えられます。ターミナルケア病棟もこの病院にはあるので、お考えください」
既に結婚して実家を離れていた私ですが、すぐに仕事の調整をして週に2回は実家に顔を出すことにしました。
父が出した決断は「抗がん剤治療をする」
2月に県立がんセンターで3日間の入院で、各種検査や1度目の抗がん剤治療を行い、4週間投与、2週間インターバルのスケジュールが組まれました。
ここで出会ったのがソーシャルワーカーのFさん。40代くらいの女性だったのですが、この方がとても頼りになりました。
なんせ、いきなり降ってわいた父の病気なので、「介護申請をすること」を勧められました。
これがね、かなり面倒でした。
地域の包括センターで申し込みをして、介護事業所が決まり、介護認定を役所にしてもらい、末期ということもあり「要介護3」がおりました。
ただ、2月から6月くらいまでは父もまだ散歩が出来るくらい元気でしたし、母もまだ病気前だったので、私の負担はそれほどでもなかったです。
週に2度、実家に帰って3人でTVを見たり、ちょっとお昼寝をしてみたり(笑)
夜からは仕事を入れていたので、それほど長い時間ではなかったですが、昼食を一緒にして、お喋りして、TVを見て、実家を後にする、といった感じでした。
心配された副作用ですが、脱毛も見られず、飲み薬(S‐1療法)だったので点滴の為の通院もなく、介護事業所には万が一急変した場合の訪問看護の連絡先を押さえてもらいました。
父も5月に、74歳の誕生日を迎え「大変だけれど、前向きに捉えたい」と私にメールをくれたのが残っています。
ちょっとずつ体調が下降気味になってきたのが夏場でした。
8月にトイレで倒れて緊急搬送。
この時、少しだけ病院選びで後悔したのは(私も相談された)、県立がんセンターは家から車で2時間弱、電車でも1.5時間くらいかかる遠方だったことです。標準治療を行っていたので、比較的近くにあるM大学病院が、S医大病院でも良かったかな、と。
8月の時には、胆管ドレナージを行っています。うまく流れなかった胆汁を流すために広げるステントですね。
とはいえ、イマドキの病院はそれごときでは入院させてくれない(私立病院なら或いは、と思う)ので、家に帰された翌日にまた緊急搬送という、母は大変だったと思います。
泊まりがけで実家に帰ろうかと思ったのですが
「おまえはもう結婚しているのだから、たまに顔を見せてくれればいいよ」
と父は言ってくれましたし、反対をごり押しするのも父の気持ちをむげにしているようで、週に2回ペースで通いました。
ただ、抗がん剤は腫瘍マーカー値をかなり下げてくれていて、ステントを入れた後の9月は、割合調子がいい日が続いていたようです。
ただ、私はいろいろ調べていて、あまりたちのよくない悪性腫瘍だということ、と覚悟していました。
父と母は「元気になって旅行にまた行こう」と話しているのを、ちょっと切なく聞いていたのを覚えています。
いわゆる「民間療法」を全く受け付けず、「標準診療」のみです。
そんな10月の上旬、母が倒れました。