今夜は友人と、福岡市近郊のお寺のライブイベントに行ってきました(^^)
西に沈む夕日を見ながら音楽に身を浸すという、ひじょーに充実したひと時を過ごして、気分上々の夜です
「諸行無常」という話が少しでて、
そのことを思い出しながら入浴してると、、、
なにやらいろいろと想念が湧き上がってきまして…その備忘として、走り書き程度に(すでに眠いし…笑)記録しておきたいと思います(*´∇`*)
老病死という人間の根本問題が、仏教の射程であることは言を俟たないと思います。
さらにそれを4つの真理で表現したのが
四法印といわれる
諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静
ですね。
そもそもの仏教の出発点は、大無量寿経に説かれるところの
「見老病死 悟世非常」
釈尊が問題とした老病死を超える道を求め、出家したというところにあると言っていいでしょう。
これは私の、あまり根拠のない予感なんですが…
それほど遠くない未来には、人類は現在の意味での「死」、生物学的な意味での肉体の死を超克するのではないかと思っています。
科学・医学の研究と進歩は、これから加速度的に歩みをはやめていくでしょう。
心臓はすでに、外部に機器を設置することによって止めない技術が確立している。
iPS細胞の研究がさらに進めば、老化により免疫力が低下して死に向かうという、これまでの生命の誕生から死までの一連のストーリーに、一大転換が起きるかもしれません。
感情がすなわち脳の電流による作用であるならば、脳機能の一部ないし情報記録部分を外部装置に移転することにより、互換性があり、かつ修復可能なものにすることは無理なことではないかもしれません。
そうなると、はたして「そうやって維持された不死なるものは、生命といえるのか?」
という疑問が出てくると思います。
また、ヒトのクローンの問題も考えられます。
クローン技術はすでに実現化されており、新しい肉体を持ったクローンに、本体の脳の記録情報を電気的に書き込みさえすれば、古びた肉体をぬぎすてるような人間の「復活」が可能になるようです。
その場合、クローンは「人なのか」古い肉体を持ったままの本体は「もはや価値のないもの」になってしまうのか
さらになによりも、最も危惧されるのはAIの出現です。
人間の能力に近づき、じきにそれを超える(一部では、すでに我々の能力を凌駕している)AIが、今後「自己の思考と感情」を持ち始めたら、それがいつか生命になるのか…
種の保存という遺伝子の利己性をAIが持たないとしても、好悪の感情を持ち、自己保存のために必要な資源の確保や自己増殖の欲求をもって暴走し始めたとき、AIをコントロールすることがはたして私たちにできるのだろうか。
以上のことを考えると、実はいま、未曽有の大変な未来と直面しつつあるのではないかという気がしてきました。
これまでの人間の歴史は「いつか人は死ぬ」ことを大前提に生き、そして、人間の社会を維持発展させることを目的としていたと思うのですが
「人は死なない」
「いのちは人工的に作れる」
「機械も人間と同じような心を持つ」
そんな時代が到来したら、これまで人類が培ってきた死生観というものが、根底から崩れるのではないかと思います。
私はいままで、諸行無常の道理は
「老病死する人である以上、拒むことのできない仕方のないものだ」
という消極的な捉え方をしていたんですが
死と生、すなわち生命の発生から崩壊の過程をドラスティックに変えてしまう可能性のある現代科学、現代医療の話を見聞きするにつけて、
諸行無常とは、
「人が忍従を迫られて受け入れる」
というものではなく、
「人と生まれたものの、あるべき必然の状態」
なのではないか
と、肯定的に受け止めたいと思うようになってきました。
哲学や生物学、生命倫理とも直結する問題ですので、門外漢の私が思いつく以上に、最先端の研究の中では当然に議論されているのかもしれませんが…
とにかく、これまでの私たちの「生命観」や「人間観」すら、根底からひっくり返るような状況が発生したとき、宗教、特に仏教が我々に何を伝えうるのだろう、何が残せるのだろう…そんなことばかりを考えて、夜更かしをしております。
まとまりのない文章なのでそろそろやめますが、、
自分で考えながらも、なにか薄気味の悪い不安感を持ちました(-。-;

