大型連休ももうすぐ中盤。
ここ数十年間(?)、気がつけば
また明日から日常生活…という
GWを繰り返している気がします(°_°)
ただ今年についていえば、
聞法・学習会で多忙を極めてる
という感じなので、
ちょっと恵まれてる感が🎶^_^
今夜は九州大谷短大、青木玲先生の
「『大無量寿経』を読む」
の新年度1回目のご講義でした。
(↓6月から始まる講座のご案内!)
常に「信」の観点から、真宗の教えを語ってくださる(※あくまでも個人の感想です)先生のお話を聞くと、いつも
「初心に立ち返って、お聖教と向きあおう」
という気持ちになるので、毎回、楽しみにしています。
前置きが長くなりましたが、
今年のテーマであり、きっと一生のテーマ
となるであろう「聞法」について。
どうして教えを聞きつづけることが
大切なのか
もっといえば、念仏(称名という行)だけで
いいはずなのに
なぜ「聞法」(聞名)
という行為が私たちの問題となるのか
という、分かったようで分からないような、
きっと分かったふりをすることはあっても、
この先にも実は分からないままに
なりそうな…
そんな問いについて、少しばかり
気がついたこと、考えたこと
をこののち書き連ねていこうと思っています。
そもそも…という話になるのですが
念仏という行為が
「往生の手段」
なのか
それとも、念仏一つが自己完結的な
「目的」なのか
それとも、その二択ではない何かなのか…
ということがまるで分かっていない私なのです。(>人<;)
ただ、あまたの師友から話を聞かせてもらい、お聖教に問い直す営みの中で、
きっとその疑問(疑惑と言った方が正確かもしれませんね)を解くキーワードは
「聞即信」
にあるんじゃないかな?
という気がしてきています。
そしてさらにその中の「信」についていえば
「深く信不具足の金言を了知し、
永く聞不具足の邪心を離るべきなり」(真宗聖典P267)
という教行信証・信巻の菩提心釈に、
私が追い求めてきて、今なお探しつづけている「信心の正体」
というものがあるのではないかな…と考えているのです。
(※直観なので、自信はありません💦)

