「仏法は、聴聞にきわまる」
蓮如上人御一代記聞書193(真宗聖典P889)
昨年からずっと考えていることがあります。
ひとつは「聞法について」
もうひとつは「菩提心・求道心について」
真宗の教えは、突き詰めて言えば
「ただ念仏」
ということなんでしょう。
そして、真宗では聞法ということを非常に大切にします。
そこで、なぜ我々は聞法しなければならないのか、
真宗においては、信心をいただくということが
大切だと聞くけれど、信心を担保し得るものが聞法なのだろうか…等々、いろいろ考えていました。
21歳で真宗の教えと出遇い、念仏する師のお姿に何かを感じて真似をするようにはなりましたが、それからおよそ22年間、私はとことん聞法を怠りました。
そして、あらためて師を通して教えと出遇いなおしたことをきっかけに「聞法不退」を決意し、1年が経ちます。
一昨年の秋、「教師試験を受けたい」
と私が言い出したときに、師は私を食事に連れて行ってくださいました。
師と若院さんと私の3人だったのですが、
よくよく考えると、誰もお寺の出身ではない男たちでしたね…(笑)
そこで
「なんで教師試験を受けようと思ったの?」
とのお訊ねがあり、私としては、今まで長い間、教えから遠ざかってしまっていたことを悔やむ気持ちから
「私は聞法を怠る人間なので、教師試験を受けて自分を追い込んでみようと思います」
と答えたのですが
それに対して師からは
「それについては、まったく私も怠ってばかりだから、恥ずかしいことだ…」
とのお言葉。
私は正直、驚きました。
そんなに深い思いもなく発した自分の言葉に、非常に重い意味があったように感じ、しかもその言葉が、何か今後の私に大きな方向性を与えるんじゃないかな?という直観がありました。
その時から
ー聞法とはどういうことだろう、
どうして聞法が大切なんだろうー
という問いが私の中に生まれてきました。
「教えを通して、自分に出遇いなおしていく」
「自力の執心を打ち破り続ける」
という意義は感じてはいましたが、
まだ、なにか肚に落ちてこない気がしてました。
ー念仏だけでいいはずなのに、なぜ、私は学ぼうとするのかー
そこがどうしても分からない。
いまになって思うのは、1年かけて、ようやく
「凡夫である私の中に、この問いが生まれてきたことの不思議さ」に気がついた、それが最も大切なことだったんじゃないかということです。
自分なりに、この聞法ということを少しばかり言葉にできそうな気がしてきたので、次回以降もこのことを書いてみようと思います(^^)
