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ちょうど1年前の2016年9月4日は、日曜日でした。
高校の同窓会の記念講演で、桑田真澄さんのお話を聴いて帰宅し、天気もよかったのでウォーキングに出かけました。

この時期までに、私は数年間患っていたうつ病の長くて暗いトンネルをやっと抜け出しつつあり、陽光の下で身体を動かすことができるようになっていました。

まだ残暑が厳しくて、数百メートル歩くだけで汗だくになります。

スマホにヘッドフォンをつなぎ、ビートルズを聞き流しながら、ただ黙々と歩きました。

ひたすら歩き続けると、いつの間にかちょっとした瞑想状態になることがあります。
禅のことはよく分かりませんが、原始仏教教団や時宗が採用した「遊行」というスタイルには、こういう瞑想手段としての意味があったりするのかなと思ったりもします。


-どうしてうつになったのか

-なぜいまの仕事に就いたのか

-いまこの街にいる理由はなんだろう

-仕事に失敗した原因は何か

-なぜ、私は両親のもとに生まれたのか

-仲間とは、友とは僕にとってなにか

-どうして仏道を志し、得度したのか

-真宗門徒として生まれた意味は

-なぜ、私たちは教えに出遇わなければいけないのか



などなど、些細な日常の事柄から、形而上学的なことまで、川縁を歩きながらとりとめなく思いをめぐらしました。


私のウォーキングコースの折り返し地点に、河口堰があります。

堰には飛び石状にコンクリートのブロックが埋設してあり、そこを歩いて川の対岸に渡ろうとした時です。

きっと、私の人生も折り返し地点なんだろうと、ふと思いました。


脈絡もなく唐突に、
これまでの半生の意味は、念仏の道に生きるための物語だったんじゃないか

そう思えてきました。


すると、これまでの家族、友人、知人、教育、生活、仕事…そういった無数の縁が、いまのこと私をつくりあげている。
そして、過去の出来事といま現在の事実に納得して、肯定して生きて行けるような気がして、その時に

まったく不思議なことですが


なまんだぶ


と言っていました。


言ったというよりも、口からこぼれ出たという方が正確な気がします。

なにか、感動とかそういった情緒的な感覚ではなく、とにかく驚きでした。

でもその瞬間、いろんなことが肚の底にすとんと落ちてくるようでした。

はじめて、名号を、念仏を、大悲を、心から「ありがたい」と思えた瞬間でもありました。

そして何より、あたたかな師恩を蒙って、どうにか私は今日まで生きることができた。そう気づいて、涙がにじみました。


それから川を渡って帰宅したはずなんですが、そのあたりはもう記憶が曖昧です。


そんな出来事があった日から丸一年経ったんですが、別に何かが変わったわけでもないような気がします。
でも、いま思うと、あれが私の回心だったのかな、という気がしてなりません。