まぶだち 大人は判ってくれない。自身のこともわかっていない。中学生サダトモを中心に、少年たちの微妙な心情、葛藤が綴られる。担任教師の小林にクズと呼ばれながら、彼らは自らの存在意義を模索する。思春期の空虚な焦燥が全編に漂う。

教室にたくさんの標語が張られて、その内容が小林の厳しさを物語っている。その中で生活記録という耳慣れない言葉があった。毎日、学校外の生活を記すことを課している。万引きをしているために本音を書けず四苦八苦する仲間たちに、頭の切れるサダトモは文面を指南する。「僕には嫌いな友だちがいます。彼は皆を仕切ったり、僕を仕切ったり、彼を頼る友だちを見ると頭にきます。というよりそれでも遊んでしまう自分が嫌いです」テツヤにはそう書けと言う。テツヤは最後に「自分が自分でなくなる気がします」と付け足した。

小林の指導は正しい。しかし全て相対で差別を促す。教室の壁には標語の他に人間グラフが張られ、クラスの生徒の名前が優等生、クズなどに分類されて張られている。畏怖に似た念を抱きながら、サダトモたちは反発する。小林もまた、本性を出さないサダトモを嫌う。

万引きがばれて反省文を書かされることになった。サダトモとテツヤはそれを書いて、その内容を褒められた。シュウジら3人は書けず、醜態を晒す。落とし前として一人は20キロを走り、一人は上手な絵を描いた。シュウジはバケツを持って校庭に立つが、それすらも達成できない。反省を認められて拍手を送られる彼らを尻目に、惨めな姿でそのはるか後方に佇むシュウジ。陰陽は痛く、何も体現しないシュウジは自ら決した。

体現できないことは、生きている価値がないということと、イコールではない。しかしシュウジは袋小路に入った。若さからの模索。それは監督、脚本の古厩智之当人の記憶が反映しているような。いちいち突き刺さった。僕も否定しながらもどこか肯定している。サダトモがたまねぎなら、僕はピーマンだ。