昭和48年1月15日20歳の成人式は、西成区の区民会館でした。その時の言葉の中で、戦争体験者の方が、私の子供で無い事は無いと、言われた言葉が今だ忘れられません。戦争に行って、帰って来たら、子供がいた、戦争に行く前に仕込んだ我が子だけど確かな証拠も無く、そのような?言葉を使うのだと?????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????その後、大阪市の!成人式に行きました。場所は大阪フェスティバルホールでした。着物を着て?着物は18歳の時に近江織物株式会社で作り19歳の正月は、多賀大社に着物姿でお参りしました。今、当時の多賀大社での写真が、八重子さんとのツーショットがアルバムに有ります。フェスティバルホールに、タクシーで下りるとテレビクルーの方に、直ぐに録られました。当時成人式の着物姿はめずらしく、私の記憶には 余り、有りません。 ???????????????????????????
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?????????????????????????????????????仕事に不満を持ちその後左官屋を、又、ケツを割り逃げました。第2の故郷滋賀県に逃げました。仕事は無く、図師さんの紹介で、八日市市の長坂八十八「やそはち」さんの家に下宿しながら、??????????????????????????????????????????????????????日野町の中野製作所で鉄工所の仕事で、今の小林住宅の下請けでした。長坂さんのお母さんに、赤い下着のバンツを干すのが、恥ずかしいと言われました。仕事中に鉄骨が四トン車の上から足に落ちて来て、左足の親指を骨折し、水口病院に入院しました。入院は30日でした。????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????病院の同室の妹さんが来て、恋中に成り、無断外泊はするは、千恵子さんとは、付き合い始めました。鹿児島ダンス喫茶で、知り合った京子さんも、奈良の看護学校に来る予定でしたが?残念ながら、断りました。?????
????????????????????????????????????????????????草々、例の八重子さんも噂を聞いたらしく、お見舞いに来て下さいました。後で、知ったのですが?私が退社の日、彼女は、我慢出来なく成り?その後?仕事にも行かず寮の部屋で泣き崩れて致そうです。お尻の下迄あった髪もバッサリ切り、短く切っていました。私に振られたと思い切ったのです。辞めた後、田中洋子さんに書いた手紙が西工場の責任者だった八重子さんに嬉しさの余り手紙を、見せたのだそうです。洋子さんは、二人の仲を知りませんでした。八重子さんに取ってはいたたまれなく成り、振られたショックで、お尻の下迄あった髪を切ったそうです。165センチのスレンダーな女の子でした。病院の屋上で戯れる、八重子さんの無邪気な写真も撮りました。何も無かったかの様な二人でした。八重子さんが故郷に正月帰った時、お父さんに、「八重子なんで?こう成ったのや」と?頭の髪の毛を掴まれたそうです。かわいそうです。??????????????????????????????????????????????????????????入院中、
又叱られました。理由は、看護婦さん達が、勉強していた時、教室に向けて、鏡の光を向けて、チカチカと照らし当時の婦長さんに怒られ、熊さんも意地に成り、入院期間を待たずに退院しました???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????その後蒲生郡日野町中山の、岡本たけおさんの家に、下宿しました。続く========================================================================ひげのカメラマン熊さん隈本宗孝クマモトムネタカ