「気分」に振り回されてきた人生であった。

 

長年「気分」という実体のないモノを心の中で形作り、「気分」が乗らない、だるいからやらない、という姿勢で面倒事を遠ざけてきた。その姿勢はどんな局面でも不変。大学受験、就活...奇跡的に「気分」が乗ったら、事前に決めていたTo Doリストを実行する...これの繰り返しで今日まで生きてきた。

 

 

しかしそんな私でも、学校の授業、塾、仕事においては、話は別であった。目の前のことを実行することに疑いがなく、「気分」を意識することのない環境においては、常に集中して取り組むことができていた。

 

つまり、実体のない「気分」など考えずに、目の前のことを少し実施してみる。それだけで随分と生きやすくなるものだ。そしてTo Doリストも最低限に留める。続けられないほどの量から削りに削って、あくまで長続きする量に留める。

 

私の実体験で言えば、ワーホリ前の英語勉強も最低限の量に留めたからこそ、私にしては珍しく仕事の後でも勉強を継続できた。勉強量など必要だと思うなら勝手に増やせばいいし、「気分が乗らない」と宣うのであればやらねばよい。

 

 

確かに、人は「気分」が乗った時、人は高いパフォーマンスを発揮することが多い。しかし、人は常日頃からゾーンに入り込めるわけではない。「こんなはずではない。やる気さえ出れば自分は頑張れるんだ...」そんなものは幻想である。人は調子如何に関わらず今日も生きる。少しずつでも歩みを進めるしかないのだ。その少しの歩みの先に光が見えてくる。

 

 

今日の文章は「気分」がどん底だったからこそ書けた。書き始めたからこそ筆が乗り「気分が乗って」きたのだ。つまり「気分」は何かを実行した結果であって、気分が乗っているから仕事が上手くいくのではない。因果関係が逆なのである。

 

まずは「気分」が乗らない自分を認める。そのうえで「勝手にせい」と自分をほったらかす。やる必要があると感じれば、自ずから勝手に始めるものだ。やらなければ、自分にとって大して重要なことではないのだ。まずは先の見通しなど深く考えずちょこっと始めてみて欲しい。凡人の私たちはそれでいい。