ウルフルズ 借金大王

今日は後輩が工場見学でいなかったので
あたふたでした

営業には期待してなかったけど
やっぱりね~
KYな上司に囲まれて働いております
1260円の違算ってこれどうなってるの?って
朝の忙しい時にたずねてくる上司
「分かりません。知りません」って答えて手元の資料をみたら
調べてもないのに営業が
「調査中」って書いてありました
だからすかさず
「調査もしてないのに調査中って書いてありますね」って
言っておきました

今日はよく働いたなぁ

さて女性だらけのバンドを紹介したところまででしたね

今思えば贅沢だけど
サークルは東京のライブハウスを貸切で借りて
よくライブしてました
高円寺、渋谷、秋葉原、六本木
三軒茶屋でもやりましたね

バンドではドラムが主で
なかなかボーカルとしてのバンドが長続きせず
そんな事を思ってる間にあっという間に
2年生の前期が終わり

いよいよ留学の時期になりました
私の学部は必ず留学が義務づけられていて
アメリカのボストンへ留学しました

海外に行った事はなく
パスポートも持ってなかったので
パスポートを作り
クレジットカードを作り
健康保険に入って
色んな説明をうけ
注射をうけて

着々と準備をしていきました
当時付き合っていた彼とは付き合い始めてこれまた3ヶ月(笑)
3ヶ月で離れる運命なのかね私は(笑)
まぁカリスマ写真家さんには勝てませんが・・・

さて留学の話をする前に

さかのぼって私が小学5年生だった頃、今から16年くらい前の事
はい、その時大人だった方もいらっしゃるかと思いますが(笑)

私の母がとにかく私になんでも体験させようと
当時通っていた「公文式」で
英語が始まり
すぐさま英語を勉強し始めました
子供だったから面白かったのと
発音も素直に聞いた通りに発音してたから
今より良かったかも?

小学5年生から英語を始めたおかげで
中学3年間ほぼ英語の勉強はしませんでした
中学1年生の中間テストの英語は100点
最初で最後の100点だったかな(笑)
あとは90点代をキープしてました
だって「Hello! Emily」とかで始まる教科書で
いやーこれかなり前にもう勉強してるけど・・・って感じでした

と、母のおかげで苦労はしませんでしたが
同時に「海外へ行け。海外へ行け」と
母にプチ留学をすすめられていた小学生時代
アメリカ=銃で殺される 怖い!って
思ってた私は
かたくなに拒んでました

もったない・・・行っとけば良かった・・・

で、母の押しに負けて私が選んだのが
沖縄 嘉手納空軍基地にホームスティでした
アメリカ人の家におじゃまするってやつです

選んだ理由は「日本だから」
ただそれだけの理由でした
東京から船に乗って沖縄まで船旅
私は三半規管が強くないので
ずーーーっと船酔い
船には二度と乗らない!!って想いました

なんとか沖縄上陸
沖縄に来るのも始めて
公文式で英語は習ってたけど
「英会話」そういえばしてなかった
話してなかったけど
英検は5級か4級レベル
単語分かる程度でした

現地につくまで一人でホームスティすると思ってたけど
大阪の4つくらい上の方と二人でステイすることになってました

ステイ先は私と同い年の女の子一人
ママ、パパでした

ママはビック!!!!!!
車のシートにおしりが いっぱいいっぱい
パパはアメリカ兵で むきむきで かっこいい

時期はクリスマスを過ぎた年末から年明けの1週間・・・だったと思いますが
町はまだクリスマスモード
イルミネーションもそのまま
3LDKくらいのアパートでしたが
靴はいたまま生活してるし
なにもかも経験したことないものばかり
沖縄といえど
一歩入ったらそこは日本じゃない
コンビニみたいな所は缶ジュースが1本単位で売ってなくて
ダース単位だし
なにもかも 大きい
ビックなママは 何かするたびに
お気に入りのチェリーコークをぐびぐび
そりゃ太りますわ
でかける前に1本
車乗って1本
帰ってきて1本
ご飯食べるときも1本
寝る前にも1本

って毎日のように

沖縄では万座毛ビーチに連れていってもらったり
パイナップル農園とか
首里城とか
観光もして

基地の中では
Tシャツ作ったり
ボーリングしたり
メキシコ人だったかなぁ・・友達の家に連れて行ってもらって
バーベキューしたり

どうやって会話してたんだろう私・・・
年明けのカウントダウンも英語でした
「Happy new year!!!!」ってアパートから叫んで

ホームスティが私の海外初体験でしたね
沖縄だったけど(笑)

さて時は戻り大学2年生の秋
私の周りは初海外の子も
高校の時に短期留学してた子も
様々いて
いよいよ東京を離れ16時間のフライトを経て
次回アメリカ ボストンに着陸します