私の目で見たものが、私の内面を作っている。
私の体、足どり、まなざしを形づくっている(外面など、実は存在しないのではないか。人間とは内面と内面と内面が波紋のように広がる形象であり、いちばん外側にある内面が外面になるだけだ。容貌をほめられてもすぐに虚しくなって、真のほめ言葉にならないのもそのためだ。どうせならこう言うのはどうか。あなたの耳はとても小さな音も聞こえるのね、あなたの瞳は私を映すのね、あなたの足どりは虫も驚かないほど軽やかなのね、と)。
そのあとまた、私の内面が外をじっと見つめるのだ。小さくて脆いけれど、一度目に入れてしまうと限りなく膨らんでいく堅固な世界を。

だから散歩から帰ってくるたびに、私は前と違う人になっている。賢くなるとか善良になるという意味ではない。
「違う人」とは、詩のある行に次の行が重なるのと似ている。
目に見える距離は近いけれど、見えない距離は宇宙ほどに遠いかもしれない。「私」という長い詩は、自分でも予想できない行をいくつもくっつけながら、ゆっくりと作られる。 p22




本を読みながら一緒に歩いているような清々しい感覚でした。

静かで優しい。あたたかい。

↑長い文章を引用しましたが、他にも読んでいて

一旦停止する箇所がいくつもある本でした。

" っあぶな!急ブレーキ!" の一旦停止ではないですよ。


散歩でいうところの、花や猫を見つけて吸い寄せられる時や

新しいお店がオープンしていて気になって覗く感じでしょうか。



穏やかな気持ちで読み終えました。

散歩したような感覚になったと書きつつも

自分の足で外に出たくなる本でした。



「私」という長い詩も、自分でも予想できない行を

 いくつもくっつけてるなぁ、と思います。

無駄で余計な 行 はないと信じたい.....

ところどころに生まれる 間(あわい) も

人生には必要不可欠だと どっしり構えたい。

私の内面、私の行、私の詩

これからもゆっくりと作っていきます。






あ、そうそう 53ページに



愛とは炎のごとく燃え上がる感情であり、

別れとはその炎のせいで消えゆく感情



とありました。

有識者のみなさん、いかがですか。






野村麻純