『鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの

汲めども尽きぬ随筆という題名の小説』

書評

 

作:西尾維新

発行所:講談社

 

 

 

 

このブログ記事では、『鬼怒(きぬ)楯岩(たていわ)大吊(おおつり)(ばし)ツキヌの()めども()きぬ随筆(ずいひつ)という題名(だいめい)小説(しょうせつ)』の書評を行う。

感想や本の内容に関しての考察を通して、このブログ記事の読者と本の魅力を共有できれば幸いだ。

 

 

 

登場人物

鬼怒楯岩大吊橋(きぬたていわおおつりばし)ツキヌ:今作の主人公

          犬走キャットウォーク先生の飼育している面構えのない猫のペットシッターをしている

犬走(いぬばしり)キャットウォーク:脳外科医

          仕事帰りに面構えのない猫を見つけ、脳がなくとも生きていける面構えのない猫の生                     

          態を調べるために、研究を兼ねて飼育している

面構えのない猫:頭部のない猫

       犬走キャットウォーク先生からは実験動物として扱われている

       ただし、具体的にどのような実験の対象なのかは不明

 

 

 

あらすじ

求職中の主人公、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは偶然見かけた脳外科医・犬走キャットウォーク先生のペットシッターの求人に応募する。

見事採用された鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは、勤務初日に自身の新たな職場となった犬走キャットウォーク先生の自宅であるタワーマンションを訪れる。

そこで対面したのは、首から上が存在しない面構えのない猫だった。

 

 

 

作品の構成

この本の特徴は、下記の三つに集約される。

①    登場人物は鬼怒楯岩大吊橋ツキヌ、犬走キャットウォーク先生、面構えのない猫、といった形で常にフルネームで表記されている

 

この本の登場人物にはなぜか、彼、彼女、私、あなた、といった人称代名詞が使われていない。

  これはこの本の書き手、という形を取っている鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが人称代名詞を使用することで生じる、登場人物の性別というプライバシーを侵害しないための配慮の現われ、だと思われる。

  根拠としては弱いが、作中で鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが性別に言及することや職業名で性別が判断されることを前時代的に感じていることが、理由として挙げられる。

また、犬走キャットウォーク先生との間に結んでいる雇用契約書の内容を遵守した結果、フルネームしか書けないのかもしれない。

そのため、作品へのリスペクトも兼ねて、当ブログ記事内でもフルネームで登場人物のことを表現する。

 

ちなみにだが、登場人物が何回フルネームで記載されているのかを、本書を読む上でカウントしてみた。

その数字はこのブログ記事の終盤に表記するが、なにぶん手勘定のため多少のズレはあるだろうことを事前に告知しておく。

 

 

 

②    ストーリーは鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの一人称視点で進む

 

鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの一人称で展開される都合上、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが知らないことは作中では明かされることはない。

そのため、面構えのない猫に関する情報は、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌ自身の経験談と犬走キャットウォーク先生からペットシッターへの就業にあたり明かされたもののみとなっている。

つまり、犬走キャットウォーク先生がどこまで知っているのか、といった様々な疑問は鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが知らない限りブラックボックスとなっている。

このブラックボックスな部分が本書に考察の余地を与えている。

 

 

 

③    面構えのない猫の謎は謎のまま

 

作中では、首から上が存在しない面構えのない猫、が登場する。

しかし、面構えのない猫とは果たして何なのか、といったことはほとんど不明のまま本作は終る。

鬼怒楯岩大吊橋ツキヌと犬走キャットウォーク先生が、各々面構えのない猫の生態を観察している。

その結果、そもそもなぜ頭部がなくとも生きていけるのか、いつから頭部がないのか、といった根本的な問題から、作中で鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが発見することになる新たな生態まで、何も答えが出ない。

あくまでも鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの一人称視点のみでストーリーは展開され、謎に対しても鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが考察をするのみで答え合わせは無し、となっている。

 

このブログ記事の中盤では、面構えのない猫、とは何なのかを考察していくので、ぜひご一読下さい。

 

 

 

本書の考察

これに関しては2つ挙げられる。

①    作者は猫を飼い始めた、もしくは飼おうか悩んでいる説

 

作家などのクリエイティブな仕事をする人は、日常生活の中から作品の題材となる物を見つけ出している、と聞いたことがある。

日常の中から、これを題材にしたら面白そうだな、という感情を作品という形に昇華するのが創作活動だ、と。

   となってくると、作者のプライベートにおける何らかの変化が起きたのでは、と推測することができる。

 

 

 

②    面構えのない猫の黒幕は犬走キャットウォーク先生説

 

これに関しては本書のオチに関する考察なのだが、常に犬走キャットウォーク先生が面構えのない猫の第一発見者となっていることに端を発している。

作劇の都合上、犬走キャットウォーク先生に面構えのない猫の第一発見者の役割が与えられているだけかも知れないが、個人的にはそこに作為を感じられた。

 

確かに、犬走キャットウォーク先生は面構えのない猫の存在に対し、脳がなくとも生きていける、という独特な生態に疑問を感じたため、自身で飼育することに決めた、と鬼怒楯岩大吊橋ツキヌに説明している。

しかし、犬走キャットウォーク先生は脳外科医という肩書きしか作中では判明せず、面構えのない猫に対してもどのような実験を施しているのか不明だ。

面構えのない猫と脳外科医、この組み合わせから新たな仮説を立てることが出来る。

それは、面構えのない猫とは、犬走キャットウォーク先生が意図的に生産している存在である、ということだ。

 

もし、そうだとしたら、頭部は犬走キャットウォーク先生の勤務地にあり、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが面構えのない猫に対して何かすることで、頭部だけの部分の脳波を計測しているのかも知れない。

例えば、面構えのない猫が餌を食べたり、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌと遊んだりする中で、脳波の波形に遠隔で影響が出るのか、という実験だ。

こう考えると、ペットシッターとして鬼怒楯岩大吊橋ツキヌを雇ったことにもつじつまが合う。

 

さて、ここまで考えたところで疑問が出てきた。

それは、なぜ、何の目的でそんなことをするのかだ。

犬走キャットウォーク先生は面構えのない猫のことを実験動物、と称していることから、何らかの実験をしているのだろう。

ここも推測で埋める必要がある。

 

思い切った想像だが、その実験の目的としては、最終的には人間の面構えのない猫化だろう。

つまり、人間も面構えのない猫のように、面構えのない人間になる、ということだ。

新型コロナウイルスが流行しだした当初、リモートワークという新たな仕事の形が注目されたことは記憶に新しい。

出社や通学という手間を省き、オフィス内での感染に配慮した結果、自宅というプライベートの空間で仕事や授業という集中力を要する行為を迫られる、という新たな苦しみが生まれた。

 

しかし、犬走キャットウォーク先生の研究によって、それが解消できる可能性が生じる。

面構えのない猫の頭部については不明な点が多いが、作中では鬼怒楯岩大吊橋ツキヌはどこかに存在しているだろう、と考察している。

この鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの考察通り、頭部は頭部で何らかの方法で生存できているのであれば、これを人間にも応用して、家で頭部はテレビでも観ながら文字通りゴロゴロしている内に、頭部以外が仕事をしてお金を稼いでくる、という世の中になるのかもしれない。

動物実験のイメージとして、最初はマウスのような小さい生き物、そこから徐々に大型の生き物になっていき、最後に人間という風に段階を踏んでいる。

現在は中間の猫の段階なのかも知れない。

まさか、とは思うが、可能性は捨てきれないだろう。

 

 

 

本書の感想

今回は有名な『物語シリーズ』のような会話劇ではなく、個人の独白のような文章の構成になっており、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌがペットシッターになるに至った経緯と、ペットシッターとしての一ヶ月ほどの自叙伝となっている。

全160ページの内、最初の60ページほどはペットシッターの勤務を始めるまでの過程の説明に終始しており、残り50ページほどに差し掛かってきたところで、面構えのない猫の新たな生態を鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは発見する。

本書の帯に書かれている自叙伝という言葉を借りると、本書は鬼怒楯岩大吊橋ツキヌがペットシッターという立場から面構えのない猫の観測者となり、その観測者の視点での自叙伝と表現できるだろう。

鬼怒楯岩大吊橋ツキヌはあくまでも観測者、疑問はあれどもそれを犬走キャットウォーク先生と共有しよう、という雰囲気はなく、面構えのない猫の生態の一つ、として粛々とペットシッターを務めている。

 

しかし、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌが観測者とすると、ペットの見守りカメラが至るところに設置されていて、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの様子も面構えのない猫の様子と同時に観察できることから、以下のように見て取ることもできる。     

それは、面構えのない猫ではなく、真の観察対象は鬼怒楯岩大吊橋ツキヌだった、というものだ。

観察している、と思っている側が観察される側だった、作家によってはそういったオチに持って行くこともできるストーリーだが、本書では新たな問題に直面する鬼怒楯岩大吊橋ツキヌと犬走キャットウォーク先生というオチになっている。

 

また、面構えのない猫、という本書のキモになる存在は作品のモチーフとして面白い、と思った。

なぜなら、猫は頭部が通ればどんなに狭い柵でも通り抜けることができる、という生態に対し、では頭部がない場合猫はどうなるのか、という思考実験のような存在が面構えのない猫だからだ。

作中では頭部がないことで、閉まった扉すらすり抜けるように移動できる、という森長可の人間無骨、本多忠勝の蜻蛉切り、織田信長の圧し切り長谷部のような超常現象的な何か、という生態になっている。

 

他にも、この面構えのない猫についての疑問は汲めども尽きない

①    この面構えのない猫は、DNA上は猫だが、本当に猫なのか(SFチックな話になるが、猫に近い猫のような何か、かもしれない)?

②    面構えのない猫が普通の猫との間に子供をもうけた場合、どちらに見た目は引っ張られるのか?

③    面構えのない猫は何らかの理由があって生み出さされた生き物なのではないか?

 

などなど……

面構えのない猫は何なのか、犬走キャットウォーク先生の考察は明示されない、ただただ鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの考察のみが記述されている。

これは当ブログ記事内の中盤にある『犬走キャットウォーク先生黒幕説』にも通じることなのが、犬走キャットウォーク先生は鬼怒楯岩大吊橋ツキヌに明かしていない情報をまだまだ握っていそうだ。

しかし、作中において謎は解けることはなく、考察の余地が残る。

それはさながら、タイトル通り『汲めども尽きぬ』といったところだろう。

 

最後に主だった登場人物のフルネームを手勘定してみたため、数え間違いはあるだろうが、記載しておく。

私の数え間違いを指摘するためでも良いので、手に取ってもらえれば西尾維新ファンの一人としては嬉しい。

鬼怒楯岩大吊橋ツキヌ:410回

犬走キャットウォーク先生:109回

面構えのない猫:179回