増上寺③ | Flamingo & Cobra.のブログ

増上寺③

徳川将軍家墓所
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鋳抜門
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徳川家宣
 

 

綱重公の子として寛文2(1662)年に出生
宝永6(1709)年将軍職を継ぎ、新井白石
等を重用し政治の刷新をはかり「生類憐
みの令」を廃止するなど、
「正徳の治」をなしとげますが、将軍職
わずか3年にして病に倒れ、正徳2(1712)年
51歳の生涯を閉じました。

 

 

増上寺の北霊域に造営された
文昭院殿廟ですが、参詣した永井荷風は
荘重美麗な外観への驚きと神壇・壁画
天井画・欄間彫刻を配した内部の
「秩序の世界」に感嘆し、その著「霊廟』
の中で「広大なる此の別天地の幽邃なる
光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに
何かしら心の奥深く、騒々しい他の場所
には決して味われぬ或る感情を誘い出さ
れる」と告白しています。
鋳抜門は、この将軍の霊廟のものでした。

 

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徳川家茂
 
紀伊徳川家、斉順の第2子として
弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年
将軍家の養子となり十四代将軍となった。

しかし、世継問題と日米通商問題で
幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって
安政の大獄が始まりましたが、
事態収拾のために公武合体策をとり、
和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎える
尊皇攘夷派と幕府の対立が激化する中で
家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征
途中の大坂城で病のために逝去した。

慶長2(1866)年、享年21でした。

幕末好きが知らないわけない将軍。
どの文献を読んでも、いい人だった
ということが書かれている。
幕末期、若くして苦労しただろうな…
 
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皇女和宮

 

十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝
天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に
出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立
していましたが、婚儀間近になって公武
合体策によって降嫁しました。
家茂の死後、落飾して静寛院と称し
波乱万丈変転厳しい時代のなか、
江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善
に力を尽くし、明治10(1877)年31歳と
いう短い生涯を閉じました。
没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があり
ましたが、本人の遺言にしたがい、
家茂公と同列に並んで増上寺に祀られた。
 
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合祀塔
 
現在の合祀塔には、家光公第三子で
家宣公の実父である徳川綱重をはじめ
家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、
十一代家斉公正室広大院、家宣公側室
月光院ら南北の御霊屋に祀られていた
歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬
されています。
なお宝塔は月光院輝子の
墳墓に祀られた宝塔が使われています。


まとめられちゃうなんてな…
宝塔は8塔あるけれど、38人が埋葬
されています。戦争前の霊廟の写真が
残っているんだけど、当時のままを
観てみたかった。
 
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徳川秀忠霊廟表門
 
これは増上寺のものではなく、ザ・プリ
ンスパークタワーの入口です。
しかし…増上寺シリーズが終わらない…
建物はほとんどが焼けてしまったので
本殿や堂宇は新しい。
古さで感動したのはやはり護国寺。
増上寺で残った数少ない建造物は、
所沢に移築されているというので、
早速、行きたいと思います。
 
増上寺は続く