行 き゛た い っ!!!!

 

という話です。

まいど、駿◎屋です!※嘘です、月辺です。

 

あの、神奈川県川崎市川崎区に位置する公園(港湾緑地)、東扇島東公園(人工浜があって潮干狩り的なコトが出来るらしいが、釣りは禁じられていて、やるなら西公園でどうぞというコトらしい。東西に公園があるのか。ややこしい)。工業地帯の夜景が見えます、とっても綺麗ですね〜!なウッドデッキが何ともSNS映えしそうなところだ。多分訪れる人の内訳は殆どカップルか家族連れだろう。

フリー素材のいかした画像を探したのだが全く見つからなかったため、写真は各々で調べていただきたい。じゃらんnetさんのクチコミと画像がとても参考になりますよ!

さて、私はそもそも海とか河川とかを望める場所が大好き(ついでにいえば緑地公園も大好き)なのである。現時点で「個人的行ってみたい場所・トップ3」に入っているのがあじ竜王山公園(香川県高松市庵治町)だ。行ってみたすぎて某アニメの二次創作合同同人誌に寄稿した際、某作自体とは何の縁もゆかりも無いにも関わらず拙作のモデル地としてしまったほどである。だから、何の理由もなかったとして、いずれは写真か動画か何かで見かけて「此処に行きたい!」と思ったに違いない。

ただし、東扇島東公園はただの海沿い夜景スポットでも、のどかな緑地公園でも無いのだ。

“聖地”なのである。手垢のついたこの表現を嫌うならば、ロケハン先、モデル地としてもいい。

具体的に言えば漫画『鉄のラインバレル』(清水栄一×下口智裕)111話に登場する、主人公の早瀬とその先輩・森次がJUDA社(元所属先)の跡地を対岸に望みながら語らうシーンの舞台が、この東扇島東公園だというのである(画像検索したら本当にそのまんまのロケーションだったので大変驚いた)

「と、これこれこういう理由で私は東扇島東公園に行きたいんだよね〜!」と母親にオタク特有のキモ早口で訴えたところ、母は沈着冷静な声音でただ一言、「……あの、「最初は嫌いでしたよ」ってやつ?」とだけ呟いた。より適切な表現を用いるなら言ってくれやがった、である。

この瞬間の私の心境は、「ウップス」の一語に尽きた。「やんぬるかな」でも良い。兎に角あまりにも拙い。拙すぎる。如何に娘(私)が提供する情報が偏りを含む、浅ましい欲望に満ち満ちたものであるかが一目瞭然だ。腐女子の娘を持つということが、親にとって如何に不幸なことか、その憐れさを私は即座に痛感した。そうだ、腐女子の娘を持つとはとても大変なことなのだ。といって、今更叩き直したとて直る見込みのある性根でも無いため、「申し訳ないなあ」と他人事のように思うことしか出来ない。いやあ、本当に申し訳ないなあ(殴)。

 

 さて、本来『ラインバレル』111話の某シーンとは、物語の終局における一つの山(緩急)の「緩」にして、その後に待ち受ける(ラインバレルのコクピット被弾及び早瀬の危篤と搬送、それを受けての森次の慟哭という)衝撃的な展開への「伏線」と解されるべきだ。

早瀬浩一という存在を不変にしろ(=人を捨て、永遠の象徴になれ)」という、考えうる限りもっとも残酷な(同時にもっとも早瀬本人が欲したであろう)解を与えてしまった森次の業をその後最終話に至るまで噛み締めるための布石なのだ。これは我が子を突き落とすライオンばりの業である。

 「久しぶりの実家は」どうだったかという問い掛けにはじまり、「JUDAはもう無い」ことを確認し合う二人の一連のやり取りは、この短くも濃厚な時間が彼らJUDA特務室(後に加藤機関)のファクターたちをいかにして非日常で結びつけたかを如実に、雄弁に物語っているが、それは必ずしもファクター全体の話ではなく、早瀬と森次の一対一の関係についても言えることだろう。彼らはあくまで非日常の絆により結びつけられた存在だ。ごくありふれた世界の中では決して交わらない線なのだ。

 この会話劇は物語の最終章にあって幕切れを予感させる非常にエモーショナルなものだが、それと同時に、互いを「超えるべき壁」「本当の正義の味方」と定義づける科白によって自他の役割を規定する、作中の言葉を借りるなら“そうあれと望む”極めてエゴイスティックな会話劇と取ることも可能ではないだろうか。それはヒロインには(ひょっとしたら友人にも?)できないことであり、男同士の、かつ仕事(役柄)の延長線上にある関係しか持ち合わせない二人の間だからこそ成立した会話とみるべきだ。

 早瀬が自分を「いつも難しいことを言ってのける、何十歩も先を往く先達であり、いずれ超えるべき背中なのだ」と捉えていることを十分に理解しているからこそ、森次はこのシーンに至っても「難しいコトを言ってくれ」たわけである。啓示を与えることが出来たわけである。曰く、

絶対の正義はない、正しさとは己の価値観に過ぎない。だから正義の反対にあるのは悪ではなく「敵」なのだ(敵もまた己の正義を行使している)。だからこそ、お前は人類全ての正義であれ。人類に仇なす者に否を唱え続けろ__とこういうことである。確かに、「難しいコト」以外の何物でもない。それは「お前ならば成し得る」という無条件の信頼の証でもあるのだろう。

けれどこの科白一つが先述の「エゴイスティックな」「男同士の」という表現の適切さを証明してもいると思うのだ。早瀬を正義の味方(ラインバレルそのもの)と規定しつつ、自分自身もまた早瀬の望む超えるべき壁、彼が「いつかあの人に勝ちたいな」と仰ぎ見る頂として振る舞っているのだから。

尤も、この脆くも確かな関係性をつづく最終決戦に至って壊したのもまた森次の科白なのであるが…

俺も……最後までお前と一緒に闘わせてもらえないか?

この場面の他に、森次が早瀬に対して一人称「俺」を用いたことは一度もない。付け加えるならば、10年前(空白の3年を換算すると13年前か)の回想(での姉や自機に対する呼びかけ)を除けば親友以外に「俺」という一人称で語りかけたことは作中一度も無いのだ。況して、「一緒に戦いたい」というのは個人の欲求・願望であって、何の示唆でも助言でもない。

無論、城崎のような正ヒロインと違って、森次の置かれたポジションは自分で行動を起こさない限り主人公の心を動かせない。待っていても迎えが来るのはヒロインの特権であって、その他の人物は自分から機会を掴みにいかなければ永遠に「その時」は来ないのである。そういう意味で「私もいかせてください」というのはある意味では非常に勇気あふれる言動なのだが、ここまでの経緯を知っている読者からすればあまりにこのキャラクターらしからぬ、有り体に言って「稚拙な」言葉である。然しそれを早瀬は「後ろは任せましたよ」という返しで真っ向から受け止める。「背中を預ける」というのは信頼を表する行為であり、自身の背後を無防備に相手へ晒す一方で、相手の後ろにあるものも全て自分が引き受ける…という相互行為だ。この言動はひとえに彼の器の大きさ故であり、親友を除いては今や彼しか生きて識る者の居ない森次の過去の故だろう。

そもそも森次玲二というキャラクターは高みと孤独の表裏一体を為すものだ。気付きとチカラの代償にあまりに多くの物を失った存在なのだ。それは早瀬自身の進路に待ち受けるものと酷似している。「たった一人の正義の味方」は、他の誰かの追随を許すものではない。そのことを理解すればこそ、早瀬はこの、目の前の同胞にとっての「正義の味方」として、共闘を受け容れたのだ。強いて翻訳するなら側に在るもの、側に居てくれるものとして。

 つまり111話における港湾のシーンは、敢えて一言で表すとすれば、近すぎるが故に遠すぎた二人の魂の邂逅なのだ。いずれ往く道があまりに似ていて、それでいてかけ離れていることが分かる、つまり最後が見えている二人の一瞬にして深く確かな時間、心が触れる瞬間なのだ。そういう、とてもプリミティブかつ深遠な視点で捉えるべきやりとりなのだ__。

 

 いや、だめだな。この時点で十分邪心に満ちた解釈バリである。何だ魂の邂逅って。近すぎて遠い二人の心が触れる瞬間って。T.M.Rの歌詞か。キモヲタ特有の小声早口みたいな分析しか出来ない自分がかなり恥ずかしい。これでもちゃんと真面目に読了したんです!ロボット物だって十二分にわかったうえで読んだんです!!その結果がこれなんです!(©ガンダムUC)

だって、これは作者が悪いよ(鮮やかな責任転嫁)。

何だよ「最初は嫌いでしたよ」って!この文脈で次に続く科白はたいてい愛の告白なんだよ!!じゃなきゃアレか、昔はトマト嫌いだったんだけど今は毎朝食べてるんだよね〜〜身体に良いしね〜〜みたいなことか!!(逆ギレ)

この東扇島東公園は夜景スポットとしてもお馴染みなんですけど、仮にこの二人の語らいが赤い尾を引くテールランプの光と向こうに見えるビルや工場が作り出す街明かりの中__だったら本当にブチ切れていたと思います。これでプロポーズじゃないの嘘だろマジふざけんなよどうせすぐ永遠に会えなくする癖に、くらいは言っていたと思います(何にキレている?)。昼間のシーンで良かったね、、、。

……そもそも2000年代ヲタクはこの一点に関して「マジそれだよね〜!」とアツくシェイクハンズ出来ると思うんですけど、「第一印象はサイアクだったけど今では誰よりもお互いの最前ヲタクだよね、お互いの気高さに憧れていて、けれど相手の弱さや孤独すら愛して包み込むことの出来る二人だよね(ついでにいえば出逢いも既定路線だったよね…)!」的な関係性の頂点にアルシェリがあるじゃないですか(『マクロスF』)?そうですよね?此処で「あれ?森次玲二って射手座…」と気付いた貴方は勘の良いガキです。くれぐれもショウ・タッカーさんにご注意ください。ついでに傷の男にもお気をつけください。

だからそりゃあ、それなりに邪な目で見てしまうのもある程度致し方ないのですよ。メンカラを赤と青で対比させて年齢をおよそ十歳差にして名前に「一」と「二」を入れた時点で清水下口が悪いのです。意図的です。この漫画はある程度腐女子版踏み絵なのです←コイツ開き直りやがったぞ

 

えー、少し真面目な話をすると、『ラインバレル』のテーマの一つに「人間らしさ」というものがあって、それはなんぞや?というのを突き詰めていくと“恐怖”“想像”“向上(変化)”のある存在が人間なのではないか、という思考実験が含まれる漫画なのですが。

人間らしさを扱う漫画において重要なシーンが「海(港)」「月(面)」で展開されるのって凄く意味のあることなんですよね。心理学(精神分析?)の観点からすれば「海」と「月」とは「怪獣」と並んで「母なるもの(グランドマザー)」の象徴です。もっと言えば「海」は文字通り人類のルーツです。生き物ははじめに水中で生まれ、やがて陸に上がり、その中で火を使うものがヒトになった…。「月」は、現実には知的生命体は存在しませんが、作中ではマキナの拠点ですよね。『ラインバレル』において現在生存する人間のご先祖サマはヒトマキナ(マキナの内で「恐怖」を会得しヒトに成ったもの)というコトですから、これも人類のルーツといって差し支えないでしょう。

加えて言えば、前述の通り111話の港湾の語らいのシーンのあとには早瀬の危篤という危機が訪れます。ストレッチャーで救急搬送されるシーンって、どんなドラマや漫画で見ても心臓に悪い…かなりドキドキしますよね。この「病院」的な連想もまた、ある意味人の起源ではないでしょうか。現代社会において大抵の子供は病院で母の胎から取り上げられますよね。

そう考えると場面設定においても人間の起源を切り取り続けた今作はかなり手が込んでいると思います。結局は「側に誰かが居てくれること」「ただ誰かの隣に居ること」が究極の人間らしさ(=人類の正義)なんじゃないか、と思わせてくれる人情味に溢れた哲学もまた、この作者の良さですね。早瀬にとってそれは城崎絵美であり、森次にとっては早瀬浩一なのです。

とまあ、既に5000字前後をキモ早口で走り抜けたわけですが、結論を申し上げると東扇島東公園に行きたいよなあ、ということです(KETSURON TOTEMO USUI)。

そもそも私、神奈川県に個人的に訪れたい聖地が多すぎるんですよ。言わずと知れた『ウルトラセブン』モロボシ・ダン役、森次晃嗣さんのお店「ジョリー・シャポー」が在る藤沢市は『青ブタ』の聖地としてもお馴染み。湘南モノレールに乗って海沿いの景色を楽しみ、顔のサイズくらいあるおせんべい食べたいですよね〜!

水族館好きとしては江ノ島水族館もめちゃめちゃ行きたいし、強羅の星の王子さまミュージアムも…行きたかったんです……(閉園情報に項垂れるヲタク)。全部コロナが悪いんだ……

あ、勿論ボールダムダムしながら君が好きだと叫びたい(※詞:山田恭二 曲:多々納好夫)気持ちもありますね(気を取り直すヲタク)!どあほう!←?

 

そんな訳で神奈川県行きて〜!を煮詰めながらも、旅費なし暇なし体力なしの自分は当分画面越しの景色を楽しむんだろうナ〜と思っております。県内で行けるデカめの公園はせいぜい愛・地球博記念公園ぐらいでせう(それだってジブリパークの混雑で来園はなかなか難しいのかも知れませんが)。

でもあたい、諦めへんよ!いずれウッドデッキからあの眺めを切り取って、感慨に耽る日のために……路銀と基礎体力をちまちま貯めておきます(笑)