Tokyo Central Church☆FK Project 「深みに漕ぎ出そう!」 -28ページ目
QTの本を見て、なるほどと思いましたニコニコ
「私が誰であるかは、職業で決まるのではなく、
私がイエス・キリストと
どういう関係にあるかによって決まり、
それが私の行動を左右する。」

私はイエス様に従う者ですと
いつも胸を張って言える生き方をしたいですラブラブ

人の言うことや自分の考えに左右されず、
ただみことばを素直に受け入れ、
主に従順し、最後まで忠実に
仕える人になりたいですキラキラ

主に従うことが、私にとって
最善の道だと言うことを
いつも忘れずにいたいですラブラブ!
詩篇 46
指揮者のために。コラの子たちによる。
アラモテに合わせて。歌
神はわれらの避け所、また力。
苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。
たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、
その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
川がある。その流れは、
いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。
神は夜明け前にこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。
神が御声を発せられると、地は溶けた。
万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、
弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。
わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
ヨハネ 3:22-30

その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、
彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。
そこには水が多かったからである。
人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。
・・ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。・・
それで、ヨハネの弟子たちが、
あるユダヤ人ときよめについて論議した。
彼らはヨハネのところに来て言った。
「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸で
あなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、
バプテスマを授けておられます。
そして、みなあの方のほうへ行きます。」
ヨハネは答えて言った。
「人は、天から与えられるのでなければ、
何も受けることはできません。
あなたがたこそ、『私はキリストではなく、
その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、
花婿のことばに耳を傾けているその友人は、
花婿の声を聞いて大いに喜びます。
それで、私もその喜びで満たされているのです。
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。
ローマ 8:31-39
では、これらのことからどう言えるでしょう。
神が私たちの味方であるなら、
だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに
死に渡された方が、どうして、
御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方である
キリスト・イエスが、神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、
飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
ローマ 8:12-17
ですから、兄弟たち。
私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
しかし、もし御霊によって、
からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、
奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。
私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、
私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
もし子どもであるなら、相続人でもあります。
私たちがキリストと、栄光をともに受けるために
苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、
キリストとの共同相続人であります。