「歴史は実例によって教える哲学である   


ディオニュシオスに語るしす。


 未だに哲学は何なのか分かっていないのが残念至極ではあるが、妙な魅力を感じるのは哲学の成せる業、それとも単にまやかしか。

 いずれにしても、歴史を哲学になぞらえるのは興味をそそるではないか。確かに、時を問わず世の人々の行いには、しかも歴史に残る、いや、残すほどのものには、それ相応の意思が自他共に介入しているわけで、それらを覗き見るともなれば、いささか考えふけることにもなろう。


 学校においては、暗記でテストをくぐりぬけるという意味では哲学はむしろ重荷ではある。

 しかして、哲学と銘打って歴史の授業をすれば学生の授業姿勢におもしろき変容が見られるかもしれない。テスト内容は暗記の徹して欲しいのだが・・・

 「はやく、死んでしまえ。

 こう云われて、くやしかったら、   

         生きてみろ!」


柴田錬三郎に語るしす。


 くやしかったら・・・とは自覚の証。

 自分が何をしたいのか、どう振舞いたいのか、はたまた自分とは何者なのか、等の兎角自分にまつわる疑問はどうも心地よいものではない。

 しかし、時折一定の時間を割くことは害ではなく、むしろ必要なのだ。

 その際、自分の内側をひたすら覗き何かを探し見る方法はよくよく行われる。迷いの一丁目とでも称しておこう。そう、迷っているのだ。


 そして、行き着く所がなく、夕方になり自分の足元からのびる影に気付く。今までは、影だけを見ていたと。影は影だけにあらず。影の輪郭を作る周囲の夕日の存在あっての影・自分が形作られていることを知るのである。

 自分の外側への開眼は思いの他、心地よいことも付け加えておく。


 くやしかったら・・・は自分・影を形作る光の存在に眼を向けさせ、今は気付いていない可能性の発見に一歩も二歩も近づけてくれる。

 事実、なにくそ!ぷんぷん!と感じた人は、まさしく自分の可能性の胎動を察した人に他ならない。

 出口は近い、近いのだ。

「まず自分ができると信じること。考えるより思ったことをやってみる。できなかったら変えてみればいい。それを続けること」


高田明に語るしす。


 彼はこうも言う。

 いろいろ課題が出てきます。その中から続ける面白さというのは出てくるんじゃないか。対処法というのを変えていけば、続けられる気がするんですけどね。

 なるほど、継続か。継続するは改善なり、ってとこでしょうか。説得力、いや、もはやこの世の真理のようにも聞こえてくる、否そうである。


 ただ、課題が山積するのは面白くない。放り出したいという怠け心が疼きはしないのだろうか。

 課題の中から続ける面白さを見出すのは必要に応じてというのもあるが、それ以上に事に当たる際の心がけのようなものを感じる。

 言うなれば前向き思考、積極性、自分への信頼を基盤とする行動指針だ。しかも根拠の有無に関わらず。


 およそ人は腰を上げるまで、最初の一歩を踏み出すまでが容易にあらず。反面、動き出せばどうとでもなるというか、どうにかせねばなるまい。つまるところ、止まれないのだ。

 それ故の失敗もある。だからこそ改善もセットになる。あとは成功まで続ける、焦らず急ぎ、止まらず歩め!