憲法学の本。
一昨日、昭和天皇が戦争責任を感じて苦しんでいた
ことを表す侍従の日記が見つかった、というニュースがあった。
これについて。
拒否権が立憲君主制の分かれ道
「昭和になると軍部が明治憲法を悪用して、
暴走をしはじめた。その結果、
日本は敗戦を迎えることになったわけですが、
これについて「天皇にも戦争の責任が
あったのではないか」と考える人々がいます。
つまり、戦前日本の行動に関しては、
国家元首である天皇にも多少なりとも
政治責任があるはずだというわけです。
しかし、最初に結論を言ってしまえば、
こういうことを言う人は憲法の何たるかが
まったく分かっていない。
デモクラシーとは何がが分かっていないから、
こういう暴論が出てくる。
そもそも戦前の日本のような国家を、
政治学では「立憲君主国」と呼びます。
すなわち憲法によって君主の権力が
制限を受けているのが、立憲君主国です。
その代表的な例が、議会制民主主義の
本家本元であるイギリスです。
イギリスにおいては、君主は国王ですが、
その国王の権力は完全に議会によって
制限されていて、実際には何の決定権もない。
「君臨すれども統治せず」とは、
そのことを指した言葉です。」
「憲法はただの建前で、君主が実質的に
統治を行っていれば、
その国は要するに専制君主国です。
では、君主が立憲君主か、専制君主であるか
を見分けるポイントはどこにあるか。
その答えは「拒否権」です。
つまり、政府が決定したことに対して、
君主が拒否権を発動できるのであれば、
その国は立憲君主国ではありません。
逆に、君主が政府の決定にすべて従うのであれば、
その国は立派な立憲君主国。」
イギリスの憲法は成分憲法ではなく慣習法で、
成立の時期には議論があるが、
一番有力なのは1707年。アン女王が
拒否権を発動したのを最後に、
国王が拒否権を発動した例はなくなったから。
「ですから、正確に言えば、
イギリス憲法が成立したのは
「1707年以降の、どこかの時点」
ということになるわけですが、
これ以後、どんなことがあっても
国王は政府の決定にサインしなければならない
ことになった。
イギリスのジャーナリスト、バジョットはその著書
『英国憲政史』の中で、
「議会が女王に死刑宣告文を可決したら、
女王は黙ってそれにサインしなければならないであろう」
と言っています。
立憲君主とは、かくも無力な存在であるというわけです。」
天皇に拒否権はあったか
「さて、そこで日本の場合はどうであったか。
明治憲法は、立憲君主国の憲法として
作動していたか。ここが大問題です。
先に答えを言えば、明治憲法はその点において、
立派に作動していた。
つまり、戦前の日本はイギリスと同じく、
立憲君主国であった。
大日本帝国憲法の第55条には、
「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ
其ノ責二任ズ」という規定があります。
輔弼とは辞書を引くと
「天子や君主の行政を助けること」
とあります。
つまり、解釈のしようによっては、やはり
天皇が最終決定権を持っていたと
見ることもできる。
しかし、憲法の場合、もっとも大事なのは
慣習です。つまり、
拒否権を行使することが実際に許されたか
という点にある。
この点においては、明治憲法の運用は明確でした。
つまり、内閣が決定したことに対して、
天皇は反対することはできない。
たとえ本心は反対であっても、そのまま
「そうであるか」といって、裁可する。
(編)「しかし、かりに天皇が「反対である」と
言い出したら、どうなるんです。」
その場合は、天皇の発言といえども無視する。
(編)「無視しちゃっていいんですか。
相手は現人神ですよ。」
そうしないかぎり、日本は憲法政治が
行なわれなくなるのだから、
絶対に無視するしかない。
これが明治以来の伝統です。」
実際、日清戦争では、開戦に反対だった
明治天皇の意向を無視して、陸軍は攻撃を始めた。
天皇に戦争責任はない。
「憲法という観点から見れば、
「天皇の戦争責任」などあるわけがない。
日本においては、戦前も戦後も
政治責任はすべて内閣にあった。
天皇はただ、それを裁可なさるしかないのです。
「もし、昭和天皇が日米開戦を拒否してくださったら
敗戦は避けられた」と言う人がいますが、
しかし、そんなことをした瞬間、
日本の憲法政治は崩壊し、
日本は絶対君主国に戻ることになる。
天皇独裁の国になってしまう。
それは、デモクラシーなんか必要ないと
言っているのと変わらないのです。」
(編)「困ったときの天皇頼み」では駄目だと
いうことですね。
」
2・26事件と終戦の時のみ、
政府が機能停止に陥っている緊急措置として
天皇が判断を下した。
日本にデモクラシーはあったか。
当初、明治政府を実質的に牛耳っていたのは藩閥で、
人民の代表たる議会は首相をだすことが
できなかった。
「戦前日本にデモクラシーはなかったと
思っている方は多いでしょうが、
そんなことはない。
どこに出しても恥ずかしくないデモクラシーが
育っていたのです。」
大正デモクラシー。
大正2年の、尾崎咢堂の桂内閣弾劾演説。
「先程も述べたとおり、明治時代における
薩長藩閥の権力たるや絶大でした。
彼らは「自分たちが明治政府を作った」
という自負があるから、議会なんぞ怖くない。
薩摩の樺山資紀海軍大臣などは
議会に対して「それほどまで反薩長的言辞を
弄するならば、議会に大砲をぶち込むぞ」
とまで放言した。
...
政府に断固反対した、尾崎さんの演説で
内閣総辞職にまで至る。
「さて、この尾崎演説の重要なところは、
議会での弁論によって実際に内閣が倒れた
という点にあります。
...
すなわち、この桂内閣の辞職こそが
「大正デモクラシー」の始まりだと言えます。
実際、これからおよそ5年後に
「平民宰相」と言われた原敬が総理大臣になった。
それまでの首相はすべて藩閥の出身であったのが、
このとき初めて平民の衆議院議員が総理大臣に
選ばれたわけです。
すでに述べてきたように、
デモクラシーとは一朝一夕に誕生するものでは
ありません。
長年にわたる権力との戦いを経て、
人民が勝ち取るものがデモクラシーです。
その意味において、戦前の帝国議会は
たしかにこの時期、デモクラシーを勝ち取ることに
成功した。
天皇の前の平等という、
ヨーロッパでは考えられない前提から始まった
日本の憲法政治も、自力でここまで進化した
のです。これは奇蹟と言ってもいい。
(編)デモクラシーは「優曇華の花」(めったにないもの)
ですものねえ。
だから、このことを日本人は
もっと誇りに思うべきではないでしょうか。
つい半世紀前まで身分制があった日本が、
誰からの力も借りずにここまで来た。
これは今から考えても、恐るべきことと
言わざるをえない。
(編)水を差すようで申し訳ないですが、
でもその後、日本は軍国主義になって
しまうわけですよね。
たしかに、それは動かしがたい事実です。
しかし、このとき日本のデモクラシーは
けっして簡単に軍部に道を譲ったわけでは
ありません。
その間にも、さまざまな戦いが行なわれた。」
開国というのは、他国と戦争をし、
侵略したりされたりをするということで、
鎖国というのは、そういうことをしない
ということだったよなとつくづく思う。
人や物、情報の交流は普通に行われていたわけで。
実際江戸時代の身分制とは、ヨーロッパのそれとは異質であり
職業選択の自由もわりとあったことや
日本の農村にも資本主義があったことなど
最近の江戸時代研究の新しい発見は
日本の近代化の成功の原因を裏付けるものと思う。
最近の、安倍内閣の議会の軽視ぶりは
やっぱり明治の藩閥政府を彷彿とさせる。
天皇が政府を介さず直接自分の意見を
発表することが多いのも、暗に
安倍さんに抵抗しているからではないかと思う。
けど天皇は政府に逆らえないから
表立って批判的なことを言えないだけで。
実際には誰も、天皇を一神教の神のようには
思っていなかったと思う。
夏目漱石がいっていたように、
神である「かのように」皆で振る舞ったというだけ。
文化とは形式そのもののことであり、
それを魂から信じていないからといって
「全部嘘っぱちだ、意味がない」とはならない。
形から入ることはいくらでもある。