主に30代後半~50代に起こると言われている事象。


それまでの人生は「様々な役割」としての「ペルソナ(仮面)」を被る事で、

一種の「満足感」を得てきた。

 

しかしながら、

それらは「本質的な満足感」とは遠い事に気付き、

葛藤が生まれ、

最終的には精神的な「新たな統合」による

「新たな価値観」にて、

人生を再スタートする様子

と言えるでしょうか。

 

仮面を剥がし続け、非自我との再会、混乱、統合といったプロセスを指すとも言えるでしょう。

 

こちらの動画でも触れてらっしゃいますが、

「人生の午後と午前ではプログラムが異なる」と。

 

何故、こういった内容に触れたのか。

おそらく38歳, 39歳位からの自分は

「コレ」だったのだろうと感じたからです。

(エルレガーデン、ハイエイタスの細美さんが何かの動画で、このワードを言っていた様な気がします。)

 

正直、

「今迄の価値観では今後、おそらくダメだろう」

と感じた瞬間が私の中で明確にあったからです。

解決策に触れたにも関わらず、

「ふわっと」、「するりと」

精神的な自分の指先をすり抜けてゆく感覚。

それが「確実にあった」訳です。

 

ちょうど郡山が台風で大変な状況であった時、

息子を授かり、誕生し、共に成長している時、

そして、コロナ禍が続く…。

 

「目に見えないもの」に

比較的敏感だった自分でさえも

大きな内面の葛藤が伴いました。

その葛藤というのは、fizz BEYOND / TRICEの変容にも表れていた様にも感じています。

 

しかしながら、

コロナ禍や自分の分身の様な息子との出会いは

「自我」と「非自我」と向き合うには

ちょうどいい期間だったと言えるかもしれません。

やはり「すべてが完璧」です。

 

まだ、「葛藤の余韻」はあるのかもしれませんが、

自分としては「統合」迄、

やっといきつけた様に少し前から感じています。

 

ミッドライフ・クライシス以降の

「本質的な生き方」であり、

「本質的な死への向かい方」、

「統合」

は各々の方々で異なるとは思います。

人によってはずっと葛藤し続ける人もいるでしょうし。

 

動画でもある様に

「絶望する事」

は大切に感じます。

 

だからこそ

「自分自身の観点を変えよう」

「変化は当たり前だ」

という事が可能になると思うので。

 

極論を言えば、

「今迄」は「ペルソナという自分」

がやってきた事です。

「これから」は

「本質的なハンドリング出来ない自分」

がやっていく事なので、

「絶望」とも言える訳です。

(ある種の達成感もなければ、

過度な苦しさもありませんから。)

 

「獲得」、「得る事」が主体だった前半が

「明け渡す事」の方が大切という事へスライドする後半の様にも感じます。

 

 

勿論、私は精神世界の探究が昔から好きです。

それもあり、回り道をしながらもある程度の落としどころを見出す事が出来たという感触があります。

 

個人的にですが、

 

・「自分」はいない

(自我による錯覚。ある種のペルソナでしかない。そこに頼らなくて良い。)

 

・「自分」という主体がいないので、「全体」として、勝手に完璧に事象が起きている

(自分がいないので、「自由意思はない」。全体の流れへの明け渡し。本質的な自分、流れに委ねる。

自然に任せる。)

 

・「自分がする、している」という感覚の放棄

(自我に伴う、判断、解釈、思考、感情の動きを傍観する。同化しない。)

 

・過去にとらわれず、未来に希望を見ない

(過去からの演算機能が思考、解釈、判断。

未来には「今居れない」、勿論過去にも。)

 

・人間的な観点の陰と陽の様にバイオリズム、変化は常々起こり、善し悪しもない。

(各々のバランスがある。ポジティヴが良い、ネガティヴが悪いも無い。

二元的ジャッジは不要であり、全体としての「循環」が伴っているに過ぎないという事。

動物はそういうジャッジが少なく、無く、自然の摂理に則り生きている。

すべては「循環」的。)

 

・結果論や比較、上下優劣、善悪…二元的な解釈を一度度外視し、ジャッジせず、許す、受容する

(論理性を超越した、結局は「愛」に行き着く)

 

こういった感覚が大切の様に感じています。

 

「冷める」=「醒める」

そうすると

「自分」=「解釈」と「思考」

である事にとことん気付きます。

 

そして、それは「過去からの演算」でしかないので、

「過去からの演算」でしか、

「各々の世界を見ていない」

という事に気づかされます。

 

言うなれば、

「自分」は「過去からの集積された論理」でしかない。

しかしながら、

「本当の世界」は「論理性を超えた所に存在している」という訳です。

(「自分」という主体が無い=客体が無い。

つまりは本来はすべてが分離すらしていない。

左脳による錯覚。

この世は幻想でしかない。

しかし、

本来無いのに、

すべてが存在しているという論理性が破綻しているにも関わらず、

それらが成立している。

客体を存在させないと「自我」という主体を存在させる事が不可能なので、

左脳はそういう解釈をする。)

 

これは自我では理解ができませんし、こういった文字や言葉にした時点で、本質からズレています。

 

最終的には「感覚」でしか捉えられません。

 

 

 

 

何となくですが、

「自分」が自発的にわざわざ「したい」という事とは切り離して、

本質から湧き起るものが何なのか…

行き着いたのは

「表現」

というワードでした。


わかり易く記すと 

「生きる」、「死に向かう」=「アート」

でしかない。

 

私の最終的な落としどころはそれでした。

 

今迄は「ファッション」とか、

狭義の「表現」という感覚でしたが、

「本質から湧き起る表現」

という広域なものと言えるでしょうか。

 

それは他者に見せる事を指すのではなく、

「体験」という事を含めての「表現」

とも感じています。

 

それが具体的に何を指すかは勿論分かりません 笑。

常に変化して然りであり、

一瞬一瞬に委ねるのみといった感じです。

 

「自分」という自我の視点、他者からの視点という意味でも

すべての上下優劣、正解や不正解、善悪という過去からの蓄積である解釈は一度置き、

「本質に明け渡す事」

それが本当の意味での「表現」であり、

「本質的な非自我が満たされるもの」

の様に感じています。

 

各々が辿り着く答えは異なって然りであり、

常々変化が伴っても然りとも感じています。


冒頭とは別に 

ご来店するお客様方も

30代後半から50代の方も少なくないので、

この様に綴った側面もあります。

 

「各々の「今この瞬間」が常に完璧」ではあるのですが、

平和であり、心身の健康がベースにあるから、「衣食住」が楽しめる気もしています。

 

もっと掘ると、

本質的な視点を思い出すと、より俯瞰し、平和な視点で全てを眺め、受容できると感じるので、

ご参考にして頂ければと思った次第です。

 

何にしろ、すべては「ご縁」、「縁起」にて形成されています。

そして、すべては「完璧に起きている」という事。

 

参考にしても、しなくとも全く問題ありませんが 笑、

お時間を割いて下さいまして、ありがとうございます。

感謝です。