「福田いまむかし」(福田歴史文化保存会)を読み解く~福田型銅鐸(広島市東区福田)

 

「古代~銅鐸・銅剣・銅戈」(「福田いまむかし(改訂版)」(福田歴史文化保存会、福田公民館)のP.5

 

 

7.「木の宗山の銅鐸は、外縁付紐付式黄帯文銅鐸(がいえんつきちゅうしきおうたいもんどうたく)と呼ばれ、銅鐸の内では最も古い形式のもので、この製作地は近畿地方ではなく、山陰か山陽であろうと言われています」(P.5)

「外縁付紐付式横帯文銅鐸」という銅鐸は存在しない。確かに「紐式」はあるが、「紐付式黄帯文」はない。

「百聞は一見に如かず 探訪・広島県の考古学」(脇坂光彦・小都隆編著、渓水社)には、こう記述している。

「銅鐸は、外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき、鈕の外側に扁平な飾りを付する)と呼ばれる古段階のものである。身の文様は横帯文(おうたいもん)を基本とし、両面上側に切れ長の双眼らしい怪しい文様がみられることが大きな特徴である」。

また「広島県の考古学」(松崎寿和、吉川弘文館、昭和58年。※松崎氏は、広島大学名誉教授、広島県埋蔵文化財調査センター常務理事、広島県文化財保護審議会委員ほか)にも「安芸福田の銅鐸で有名な小型の横帯文銅鐸は広島市安芸町福田の木ノ宗山の中腹の烏帽子岩の下で細形銅剣と広形銅戈と一緒に発見された」(同書P.90)、「この銅鐸は高さ18.9センチ、厚手兜型鈕・黒漆色で、文様は複合鋸歯文・綾形文・半円文・斜格子文・雲形文・渦巻文などが鋳出されている。一般的に横帯文銅鐸とよばれていて、最古式のものである」(同書、P.133)と記述されている。

『広島市の文化財』(広島市教育委員会、昭和62年)には「銅鐸は、鈕(最上部の半環状の部分)の断面が変形で、その外側にうすい縁を付けた「外縁付鈕式銅鐸(がいえんつきちゅうしきどうたく)」と呼ばれるものです」(同書P.73)とある。

『新修広島市史 第1巻 総説編』(広島市役所、昭和36年)にも「三条の横帯」(同書P.174)とある。以上の記述から判断すると「外縁付紐付式黄帯文銅鐸(がいえんつきちゅうしきおうたいもんどうたく)」ではなく、「外縁付鈕式横帯文銅鐸(がいえんつきちゅうしきおうたいもんどうたく)」が正しい。

8.「銅剣、銅戈は細形で、日本製のものとしては最も古い形に属し、この銅剣と同型のものは中・四国・北九州東岸から発見されており、これらの鋳型は兵庫県尼崎市より出土しています。また銅矛は、九州型戈型祭器と言われ、福岡・佐賀・大分などで製造されたものです」(P.5)

(「広島市の文化財」より)。

 「百聞は一見に如かず 探訪・広島県の考古学」(脇坂光彦・小都隆編著、渓水社)は、「ともに中細形」(同書P.3)と記述するが、『新修広島市史 第1巻 総説編』(広島市役所、昭和36年)は、「銅剣は細形銅剣」(P.174)、「銅戈は、従来クリス型銅剣とよばれていたもの」としている。一方『広島県の考古学』(松崎寿和、吉川弘文館、昭和58年)には「細形銅剣」「広形銅剣」と記載している。広島市の文化財』(広島市教育委員会、昭和62年)は「「中細形」に分類される銅剣」と記載している。

銅剣・銅戈の製造地については文献・論文に記述はほぼない。

銅鐸については、「百聞は一見に如かず 探訪・広島県の考古学」(脇坂光彦・小都隆編著、渓水社)が「福田型銅鐸は弥生時代中期(紀元後1世紀頃)の古式のものとされ、福田型の鋳型(石製)が佐賀県で出土しており、木の宗山の銅鐸は、銅剣・銅戈とともに北部九州で製作され、もたらされたものと考えられている」としている。

『広島市の文化財』(広島市教育委員会、昭和62年)には「北九州や大阪湾周辺で鋳型も発見されています。木の宗山出土の銅剣、銅戈も国産のものです」の記述にとどまる。

私は、紀元前1世紀頃、九州北部で製作されたと考えている。

 

今回はここまで。