故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑~広島市安佐北区狩留家町3232
広島市安佐北区狩留家にある従軍碑・慰霊碑である。
狩留家方面は、私の野鳥観察コースだ。
道沿いに大きな石碑がある。
この石碑について、地域の郷土史研究家の方に尋ねてみたが、誰もご存じなかった。
安芸藩の陣屋だったKさんも知らないと言われた。紹介された方も知らないという。
「高陽町史」には、明治維新以後~戦前の従軍碑、慰霊碑は記述がない。
先日、狩留家で地域の方に尋ねてみると「ネットにある」と言われたので、検索してみると以下の投稿がヒットした。
「やっさんの日々雑々日記」(yasaan0898.exblog.jp)。
No.1882-白木街道の石碑)(2011.9.4)
「狩留家駅の近く」というのは間違いです。
グーグルマップで検索すると、「故陸軍輜重兵二等卒池田一郎君之碑」が表示される。
Yahoo!の地図にはない。
グーグルマップより転載。
近くに狩小川小学校がある。先日、ここで写真を撮っていたら、小学生(低学年)が数名通りかかったので話しかけてみた。「知らない」という返事。
どこでもそうだが、学校では、特に中学校では地域史・郷土史を扱わない。小学校では、郷土史家の話を聞く機会もあるようだが、戦前の記念碑・忠魂碑などは触れないようだ。
2020年1月8日撮影。
現在、上から木の枝が垂れ下がり、3分の1ほどが見えなくなっている。
隣には自販機がある。
ドライバーが捨てたのか、この碑の周囲にはゴミ(ペットボトル、缶など)が散乱している(いつも)。
自販機の持ち主は白木の方らしい(近くの高齢の女性の話)。
狩留家での野鳥観察のあと、ここを通って帰るのだが、ゴミは片付けられていた。誰か(たぶん所有者)が掃除しているのだろうか。
この石碑の裏に芸備線がある。県道との間は数メートル、だれの所有なのだろうか。
この従軍碑はだれが管理しているのだろうか。
先月、この碑を見に行くと、高圧洗浄で表面を掃除しているような感じになっていた。
刻字がかなり判別しにくくなっていて、残念だった。
(4月2日)
【追加】
2020年1月8日撮影。
写真は、2021年8月撮影。
上から木の枝が垂れさがってきている。
今(2024年4月)、3分の1ほどを覆っている。
裏側。
かすかに「北清事変」の文字が読める。
「朝陽門」?
「~病院」?
「戦病死」と推測される。
とすると、たぶん遺骨は戻っていない。
日清戦争では少なかった戦死者(戦病死者)が少ないが、それ以後、増加する。
隣に自販機。
この時は、ゴミはなかったが、通る時は、ほぼゴミが散乱している。
(4月4日追加)。
【参考】Wikipediaより。
義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語: 義和團運動; 拼音: Yìhétuán Yùndòng、満洲語:ᠴᡳᠣᠸᠠᠨ
ᠰᡝᡵᡝ
ᡝᡥᡝ
ᡥᡡᠯᡥᠠ ᡳ
ᡶᠠᠴᡠᡥᡡᠨ[1] 転写:ciowan sere ehe hūlha i facuhūn)は、1900年(1899年[2])に起こった、清朝末期の動乱である。義和団事件・義和団事変・北清事変[3](ほくしんじへん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。
「扶清滅洋」を叫ぶ宗教的秘密結社義和拳教による排外主義の運動が展開された[4] が、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった[5]。だが、宣戦布告後2カ月も経たないうちに、北京の公使館員や居留民保護のため八カ国連合軍が北京に進出し、大日本帝国が中でも最大の兵力8000人を投入した[4]。