西南戦争「旌忠碑」が広島東照宮に復元された経緯、理由~西南戦争「旌忠碑」復元委員会より

 

「西南戦争『旌忠碑』は このような経過をたどって もとの位置によみがえった」(西南戦争「旌忠碑」復元委員会、2017(平成29)年11月22日)

 

忠魂碑、従軍碑、慰霊碑を調べているうちに、この石碑に行き着いた。

私は鹿児島生まれ、西南戦争(西南の役)の舞台になったところだ。

西南戦争で、我が家には西郷隆盛軍を追撃した政府軍が立ち寄り、書き残した板(兵士の絵、漢文、候文など)が残っている。

この旌忠碑(せいちゅうひ)は、広島鎮台の歩兵第11連隊の戦死者の忠魂碑である。

広島鎮台からの派兵は知らなかった。

家族史を調べているうちに、この碑を知った。

この旌忠碑は、現在広島東照宮にある(復元された)。

現在、いや元々広島東照宮にあったものだ。

 

このパンフレットは、2017(平成29)年10月7日の除幕式の様子、復元の経過などを載せている。

「表紙」。

この旌忠碑は、その大きさからして圧倒感がある

山本一隆・委員長挨拶。

右は、松井一實・広島市長挨拶。

下部分には「旌忠碑」の説明がある。

「旌」は、「旗幟(きし)」を高く掲げて広く知らしめるとの意味がある(パンフレットより)。

「広島鎮台兵の健闘奮戦を伝え、国家泰平の基が築かれたその功績は特筆されるべきものとの思いが込められた」(パンフレットよりう)。

郷里・鹿児島では、西郷隆盛は英雄である。賊軍とは思われていない。

西南戦争で派兵された広島鎮台の兵士は六百数十名戦死したという。

我が家に立ち寄った官軍の出身地は不明だが、広島鎮台の兵士かもしれないし、西郷隆盛の終焉の地・城山で戦死したかもしれない。

「撰文(せんぶん)並びに篆額(てんがく)は、西南戦争当時広島鎮台司令長官で長州藩出身(津和野らしい)の三浦梧郎(みうらごろう)、書は旧岩国藩士の塩屋處(しおのやさだむ)によるもの」(パンフレットより)。

旌忠碑は、1878(明治11年)12月、広島東照宮に建立された。

西南戦争は明治10年2月~9月の国内最後の内戦だった。

原爆の混乱で行方不明。

石碑などを収集した「渡辺清陵閣(渡辺沢次氏石庭)」(竜王町)に移設されたようだ。

当主が変わり、石庭の処分の際、「砂谷銘石」に引き取られた。

「絵と写真による『旌忠碑』」(パンフレット)

部分拡大してみよう。

 

「大日本名所図録」(明治34年)。

赤〇のうち、一つが旌忠碑。

明治43年の「饒津神社(にきつ)三百年祭」の時代行列。

馬上の武士姿の横に見える石碑の一基が旌忠碑。

右か左かは不明。

「西南戦争とは・・・」(パンフレット)。

説明に間違いを見つけた。

3行目「熊本新風連」は「神風連(じんぷうれん)」が正しい。

2月19日の命による広島鎮台兵の戦死者か。

6月に増派された「広島遊撃歩兵第八大隊」の戦死者も含むのかは読み取れない。

三原(出港)~大分・佐伯(上陸)~延岡、加治木に転戦。

薩摩軍の戦死者約五千人、政府軍は六千八百余り。

政府軍五千八百人のうち約1割が戦死、そのうち一割が広島鎮台兵。

かなり高い戦死率と言えまいか。

 

協賛者。

「復元除幕式のようす」

広島市長の挨拶文は、東区長の代読となっている。

では、碑文には何と書かれているか?

今回は、パンフレットの紹介がメインです。

「広島史話伝説」「広島県史」「広島師団史」「国史大辞典」を調べる必要が出てきた。

別な機会で、「碑文」を取り上げます。

なお、このパンフレットは、復元委員会事務局の田辺良平氏から直接頂きました。

2023年12月3日撮影。

旌忠碑は、鳥居の左側(西側)に復元されている。

高さ2.8m、幅1.3m、奥行き0.4m。

説明書(板)。

実は広島にある忠魂碑、従軍碑にはほとんど説明がない。

裏。

「明治十一年十二月廣嶋鎮臺臺下将校融資建立」。

上から望む。