「凱旋碑」(皆実町緑地)について、中国新聞「文化」欄・・「モノ語り文化遺産」2024.2.28
最近、忠魂碑、従軍碑、凱旋碑などの石碑、特に戦前の石碑について調べています。
タイミングよく、2月28日(水)の中国新聞「文化」欄(15面)に、「モノ語り文化遺産 平和塔の金鵄」という記事が掲載された。
私のスキャナーはA4までしか取り込めないので、分割して転載します。
私見を交えながらの転載です。
記事の右部分。
「モノ語り文化遺産 平和塔の金鵄」という表現。
そもそもこの凱旋碑(平和塔)は”文化遺産”と言えるのか?
読者には、この碑が文化遺産にふさわしいと印象づけないか?
そういう意味で、なぜ「凱旋碑」という碑文(文字)が「平和塔」になったのか、説明が曖昧ではないか?
「軍都からヒロシマへ体現」という捉え方だが、「ヒロシマ」は「廣島」「広島」と関連した文言、つまり原爆後の被爆の実相を伝え、「平和都市建設」を進める「平和」の概念が含まれる。
「軍都」とするなら、「平和都市・広島」がいいのでは?
記事の左側部分。
この凱旋碑は、鷹さ16m。
私の現地で確認したが、見上げる碑だ。
その点、この角度からの写真は貴重だ。
おそらく近くのビルからの撮影だろうか。
交番の横とは「皆実町緑地」のことだ。
渡辺敬子記者?の執筆のようだ。
確かに「広島市の近現代史を体現」する存在ではあると思うが、広島市というより「廣島」あるいは「広島」がいいのではないか。
つまり、日清戦争(明治27~28年)、山陽鉄道が広島まで開通、宇品港ま
「宇品線」は17日間の突貫工事で作られた。
一般的に(たぶん学術的にも)、「広島(廣島)」は、兵站基地と機能したと表現される。
「凱旋碑」が建設された経緯についての記述をみてみよう。
「最前線」の表記は、文字数が限られる中、やむをえないと思うが、「最前線(前線基地、兵站基地)」がいいのではないか。
「神武天皇」ぼ部分。
ご承知のように、「日本書記」は神話として神武天皇が登場する。
戦中、全国で「紀元2600年記念」祭が行われた。
2600年前はどんな時代だった?
文字も記録もない縄文時代だ(近年、時代測定法の発達により、稲作=弥生時代は、紀元前7~8世紀まで遡れると言われてきた)。
この書き方は、神武天皇が実在する、歴史上の人物だったかのような印象を持たせる。「~ようだ」で曖昧としているが、科学的ではないのではないか。歴史科学研究・成果に基づいて、歴史教育は行われてきた。
「凱旋碑」ら「平和塔」への名称変更を「~残したい一心」と言い、「あえて曖昧にする必要もあったのだろう」とぼかす。
古地図を調べたり、金鵄の修復を受けおった業者へ取材など、その努力には敬意を表したい。
が、名称変更の理由の”深堀り”はこれでいいのか?
私が調べてた範囲では、戦後GHQの占領の配慮(?)して、政府が忠魂碑、従軍碑などの廃棄、撤去の通達を出している。
原爆被害の混乱から、ここは大型と言うこともあり、様々な理由で撤去されなかったのではないか?
モルタルで「凱旋碑」の文字を埋め、「平和塔」と変えた。
広島城内にある「大本営跡」は戦前まで文部省の「史跡・史蹟」指定となっていたが、「史跡」の文字にはモルタルが塗られている。
宮崎の「平和塔」は戦前「八紘一宇」の塔だった。
小学校の修学旅行で行ったことがある。その時は「平和を願う塔」だと思っていた。後に元々は「八紘一宇」の塔だったと知り、複雑な思いをした。
たぶん歴史教育に関わっていなかったら、すんなりと受け入れていただろう。
写真中央の右側に「交番」がある。
「皆実町緑地」「銘板」の説明。
クリックすると読めるはずです。
黒田氏の「広島の被爆や復興の歴史は知られているが、軍都の歴史は知られていない」と感じてきた。「そこにあるのに、顧みられていないものに形を与えてみたかった」。
広島は8・6の原爆で「リセット」された(広島大学の先生)。
戦前、近代史への研究は少ないのか?
文化財団の広島城や郷土資料館は企画展を開き、「軍都の歴史」を特集してきた。
一例をあげよう。
「大本営」(左側、広島城内に置かれた。明治天皇は日清戦争の指揮を執った。
右上は「広島駅」。徴兵された兵士は、駅裏の東練兵場で訓練(教練)を受け、宇品港から出兵した。
17日間の突貫工事で敷設された宇品線。
学生時代、皆実町、翠町に住んでいた。当時は、早朝宇品線を貨車が通過した。
「凱旋門」が作られた。
中央が、当時の「凱旋碑」。
2023年12月撮影。
場所が分からず、郷土資料館の方に教えてもらった。
高さ16m。
隣にビルが建つ。
私の知り合い(元・文化財課長・特命課長)の話では、高すぎて「供出」を免れたらしい。
「平和塔」の文字。
隣の交番で、「平和塔」について尋ねてみた。
警察OBらしき方が、見せてくれた。スマホで撮影。
Wikipediaでも「鷹の凱旋碑」とある。
この「みなと宇品下町コース」には、「鵄とび」という文字があった。
誰が書いたのかは聞かなったが、誰かが「鷹ではなく、鵄とび」だと認識していたようだ。
平成24年7月の「南区散策ガイド ●宇品・元宇品マップ」にはない。理由は不明。
黒田氏の言葉「そこにあるのに、顧みられていないものに形を与えてみたかった」。
私が調べて限り(ほんの一部)、凱旋碑、忠魂碑などの説明(板)はほぼない。温品小学校の碑には市教委の説明板がある。
広島城の「大本営跡」はあります。
どう顧みるか、そこが重要だと思う。
あるいはなぜ顧みられないか。
戦前のことに触れない風土が背景にあるように感じる。
余談。
この特集記事が出た翌日(木曜日)、中国新聞にメールした。
翌日(金曜日)、担当者から電話があった。
「記事を隅々まで読んでもらい・・・・」。
女性記者ではなく、男性の声だった。
子どもたちが「これ何?」と聞かれたとき、どう答えるか?
この碑の歴史、なぜここにあるのか、建てられた理由、経緯は何か。
”事実”として説明があっていい。
祖父が従軍し、その従軍碑が鹿児島・姶良市の稲荷神社にあり、姶良町郷土誌にも記載がある。おそらく「ひっそり」と立っているだろう。
近所に「慰霊碑(戦死した兵士)」が4つある。隣の区には3つある。いずれも説明はなく、「ひっそり」と立つ。最近、狩留家の奥に慰霊碑が2つあることを知り訪ねてみた。
忠魂碑、記念碑、従軍碑から日本近代史、鹿児島・広島の近代史をみてみたい、捉えたいと思う。
何を入口にして、歴史に迫るか。
そういう意味では、この記事をきっかけにして、広島の近現代史の興味・関心を持ち人が出てくればいい。案外、SNSの時代、様々な情報、史料・資料が明らかになるかもしれない。
広島(市、県)は原爆によって、多くの資料・史料が失われた。軍部が意図的に焼却もしている。
歴史が、「ひっそり」と消えようとしている。