Yahoo!ニュースより。
警視庁150年 1/150 初代大警視・川路利良の教え 時代変われども「心構え」は不変
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日本の近代警察の始まりである警視庁が15日、創立150周年を迎えた。西欧の制度を学び出発した草創期から「民主警察」となった現代まで、激動の時代を歩んだ警視庁。設立に尽力した初代大警視(後の警視総監)・川路利良が残した〝魂〟は、今も警視庁に受け継がれている。
「注目!!」 掛け声に合わせて整列した若者たちが整然と動く。東京都府中市の警視庁警察学校にある「川路広場」。列の正面には、学生らを見守るように川路の像がそびえる。 「川路広場は神聖な場所」。警視庁の警察官に話を向けると、必ずこの答えが返ってくる。 広場は入校式など大きな行事や、警察官としての所作、心構えを鍛錬する「教練」など決まった場合にのみ使われる。四方を建物で囲まれているが、横切ること、広場で歯を見せて笑うことは厳禁という不文律がある。
「警視庁警察学校百年の歩み」によると、広場の完成は昭和40年で、名称が決まったのは47年。現役の警察官はみな川路広場から育っている。卒業式などでは銅像前が一番の人気撮影スポットといい、銅像は「学校のシンボル」となっている。
日本警察の父
川路は近代警察制度の導入に大きな貢献を果たしたことから、「日本警察の父」とも呼ばれる。 旧薩摩藩士出身で、明治維新の立役者の一人、西郷隆盛の下で幕末、戊辰戦争などに従軍し、維新後は警察機関の要職を担う。川路は明治5年、欧州で1年間警察制度を学び、帰国後に、フランスにならった首都警察設立の必要性を説いた「建議書」を提出。これがきっかけとなって7年1月15日に設立されたのが「東京警視庁」だった。 大警視となった川路だったが、恩を受けた西郷が下野し、10年には西南戦争が勃発。川路も下野するとの噂が出たが「私情においては、まことに忍びないことであるが、(中略)大義の前に私情を捨てて、あくまで警察に献身する」(「警視庁史 明治編」)とした。
西南戦争では陸軍少将を兼ね、警察官らを率いて鎮圧。戦後はさらなる制度研究のため再び欧州に渡るが、病に倒れ帰国後に死去した。 まず自分戒め 川路がつくり、残した警視庁は終戦を経て、形を変えながら今に続く。一方、「警察官とはどうあるべきか」という川路の言葉も現代に生きる。 《声なきに聞き形なきに見る》 川路の訓示や発言をまとめた書籍「警察手眼」に収録された言葉で、捜査の極意を示しているとされる。警察学校の教官を務める新井理義警部補は「捜査の際、目に見えないもの、聞こえないものを感じ取ることが大切だと教えるのに引用している」と話す。 50代の警視庁幹部は「『酒を温めるにはより熱い湯が必要となる。人を戒める警察官はまず自分を強く戒めなければならない』という言葉が今でも胸に刻まれている」と話す。この幹部が若いころの警察学校では、警察手眼の講義があったという。 幹部はこうもいう。 「川路大警視の言葉は時代が変わっても、不変の警察官の心構えとして警視庁の血肉となっている」 (橋本昌宗)
◇ 警視庁 東京都を管轄する警察組織。明治7年1月15日、東京警視庁として設置される。初代警視総監(大警視)は川路利良。警視総監を筆頭に総務部、警務部、交通部、警備部、地域部、公安部、刑事部、生活安全部、組織犯罪対策部、102の警察署などで組織される。本部庁舎は東京都千代田区霞が関。警察職員は約4万7千人。 ◇ 創立150周年を迎えた警視庁。数多の事件、事故、災害に対応し、時代に合わせた新たな組織、捜査手法の導入など変化を繰り返してきた歴史を150回にわたり振り返る。
以上、転載。
さすが産経新聞、西暦は使わない。
2024-150=1874.
つまり1874年、明治7年に「東京警視庁」ができた。
実は、私の長兄は、東京警視庁だった。皇宮警察にいた。
父は戦前警察官だった。
長兄は上京してから警察官になったようだ。
夜学で大学で学び、警部補まで昇進したが、なぜか早めにやめた。
八王子に家があり、学生時代、泊まったことがある。
広島に出張できたときは、拳銃を持っていて、広島中央警察署に預けに行った。長女、長兄も警視庁へ。長女はやめたが・・・。
とある理由で、広島東警察署の刑事に相談し、結果的に解決したが、私が鹿児島出身で、兄、父親が警察官だったと話すと、親近感を覚えたのか、気さくに相談に乗ってくれた。
「初代警視総監(大警視)は川路利良」だったことを知っていた。
たぶん警察学校で習うのではないか、と思った。
西南戦争での政府軍の半数は警卒だったそうだ。士族出身。