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ちょうど「80年前」の1944年、「第二次世界大戦」の経過をふりかえる

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現代ビジネス

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 今年(令和6-2024年)は、第二次世界大戦末期の昭和19(1944)年から80年にあたる。この年は、日本、ドイツなどの枢軸国側(イタリアは前年に脱落)と、アメリカ、イギリスなどの連合国側、双方が死力を尽くして戦い、連合国側がほぼ勝利を手中にした、逆に言えば日本やドイツの敗勢が決定的になった年でもあった。新年にあたって、いま、80年前の出来事を大まかではあるが振り返ってみる。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!

ラバウルでの激戦

トラック環礁で米軍機の空襲を受ける日本軍艦艇

 太平洋では、1944年2月、中部太平洋の日本海軍の拠点・トラック島が米軍機の空襲で壊滅し、それまで南太平洋の最前線を支え続けていたニューブリテン島ラバウルが無力化した。  ラバウルは前年の秋以降、連日のように連合軍機の空襲を受け、なかでも1月17日の邀撃戦(ようげきせん)では「69機撃墜、損失0」の戦果を華々しく報じたりしたが、日本側も「撃墜王」と称された小泉藤一中尉が1月27日に戦死するなど、多くの搭乗員を失っていた。  ラバウルを無力化した連合軍は3月、トラック島から連合艦隊司令部が後退していたパラオを急襲。連合艦隊司令長官・古賀峯一大将は3月31日、さらにフィリピンのダバオに逃れようとするが、悪天候のため乗機が行方不明になり、殉職した。前年(昭和18年)4月18日の山本五十六大将に続き、日本海軍は1年足らずのあいだに2人続けて実戦部隊の最高指揮官を失ったことになる。

日本本土への空襲が始まる

6月19日~20日、マリアナ沖海戦。米空母を攻撃、撃墜される日本海軍機

 さらに6月、連合軍は日本政府が「絶対国防圏」と位置づけたマリアナ諸島のサイパン島に上陸、日本本土からの救援を阻止するため小笠原諸島の硫黄島に大規模な空襲と艦砲射撃を加える。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊玉砕。連合軍は続いて7月21日にはグアム島、7月24日にはテニアン島に上陸し、8月にかけて占領した。  マリアナが敵手に陥ちたことは、日本本土のほぼ全域が米軍の新型爆撃機、ボーイングB-29の空襲圏内に入ったことを意味する。勢いに乗った連合軍は10月、フィリピンに来襲。日本海軍の連合艦隊はレイテ島の敵上陸部隊を殲滅せんと総力をもって迎え撃つも大敗を喫し(比島沖海戦。10月23日~25日)、事実上壊滅した。爆弾を抱いた飛行機で敵艦に体当たりする「神風特別攻撃隊」が初めて出撃したのはこのときのことだ。  日本陸軍はインド北東部の占領をめざし、3月より「インパール作戦」を実施したが、戦闘や食糧不足、風土病などのためインド国内だけで3万名ともいわれる将兵を失い失敗。  さらに4月より米軍機の日本本土空襲の拠点となり得る中国内陸部の航空基地を占領、仏印(現・ベトナム)への陸路を拓くため、「大陸打通作戦」という、健軍以来最大規模の作戦を実行、作戦目的は一応達したものの10万ともいわれる戦死、戦病死者を出し、マリアナ諸島失陥により日本本土への空襲を防ぎ止めることはできなかった。

 

激変するヨーロッパの戦況

パリ解放。ドイツ軍将兵との間に子供をもうけたり、親しくしていたために丸坊主にされた女性たち

 いっぽう、ヨーロッパでは、1月、ソ連軍がドイツ軍に対し攻勢に転じ、イギリス軍がドイツの首都・ベルリンを爆撃。さらに6月6日には、ドイツ占領下の北フランス・ノルマンディーに連合軍の大部隊が上陸、これを契機に連合軍は北西ヨーロッパへの進撃を強める。8月25日、連合軍によるパリ解放。  これは連合国にとって、勝利を決定づける華々しい成果だったが、興奮した群衆が、それまでドイツの施政に協力していた者や、ドイツ軍人との間に子供をもうけたフランス人女性たちをリンチにするなど、人間の醜い部分もあぶり出す出来事となった。  敗色濃厚なドイツは、9月より弾道ロケット・V2によるロンドンへの攻撃を開始、なおも抵抗を続ける。

日本の戦没飛行機搭乗員数と航空機の生産機数

写真:現代ビジネス

 1944年の各国の戦死者、民間人犠牲者の数には、同一条件で比較できる確たる統計がないこともあり、この記事ですべての数字を挙げることはできないが、ごく限られた範囲ではあるが、当事者による調査が行われた日本海軍の戦没飛行機搭乗員の数字を、他年度との比較もあわせて以下に挙げてみる。  (注:現状ではもっとも信頼性の高い統計だが、記録の不備もあり、これが完全ではないことは調査にあたった湯野川守正氏〈元海軍大尉、空将補。関連記事〉も認めている)  日本海軍航空隊に限っても、1944年の戦没者が突出して多いことがわかる。昭和12年の支那事変勃発の1937年から1943年まで7年間の戦没者5118名の2倍近い9856名もが、1944年だけで戦没しているのだ。1945年になると減少はするが、これは8月で戦争が終わったためで、万が一、日本本土決戦などという事態になれば、もっと悲惨なことになっていたはずだ。  1945年になると、日本国内においては、米軍機による無差別爆撃や沖縄戦で、無辜の民間人の犠牲が急増する。  ちなみに、太平洋戦争が始まった1941年から終結した45年までの日米の航空機の生産機数は、以下のようになる。日本では、戦没者数と比例して1944年の生産数が多いのがわかる。  次に、1944年の主な出来事を時系列順に並べてみる。(私が「現代ビジネス」「マネー現代」に書いた関連記事のあるトピックスにはリンクあり)

昭和19(1944)年のおもな出来事

朝日新聞昭和19年1月1日の紙面より

 黒字--太平洋戦争の戦況、青字--日本軍統帥、緑字--日本国内の出来事、赤字--海外の出来事  ()内は、関連のおすすめ映画  1月7日 大本営がインド北東部の攻略を目指しインパール作戦を認可  1月14日 ソ連軍がレニングラードとノヴゴロドで攻勢開始  1月17日 ラバウルに敵機来襲、69機撃墜、損失ゼロ(日本側記録)。ラバウルは連日、大規模な空襲を受ける  1月20日 イギリス軍のベルリン空襲  1月24日 大本営が大陸打通作戦を命令  1月26日 東京、名古屋で建物の強制取り壊し始まる  1月30日 米軍、マーシャル諸島マジュロ環礁に上陸  1月31日 米軍、マーシャル諸島のクエゼリン環礁に上陸  2月6日 クエゼリン環礁の日本軍守備隊玉砕 https://gendai.media/articles/-/96385  2月17~18日 米軍、日本海軍の拠点トラック島を大空襲 https://gendai.media/articles/-/59862  ラバウルの航空部隊は一部を残してトラック島に後退(「ラバウル海軍航空隊」の終焉)  2月23日「竹槍事件」(毎日新聞発禁事件) https://gendai.media/articles/-/92850  2月26日 海軍省、呉海軍工廠に人間魚雷の試作命令。特攻兵器開発の始まりhttps://gendai.media/articles/-/66117  2月29日 米軍、アドミラルティ諸島占領  3月4日 宝塚歌劇団休演前の最終公演(陸海軍への慰問公演は続く)  3月6日 新聞の夕刊廃止  3月8日 日本陸軍、インパール作戦開始  3月30日~4月1日 トラック島に代わり連合艦隊が司令部を置いたパラオが連合軍機の大空襲を受ける  3月31日 聯合艦隊司令長官・古賀峯一大将、空襲下のパラオを脱出、フィリピン・ダバオに向かうも悪天候で乗機が行方不明になり殉職(海軍乙事件)  4月9日 海軍省、軍令部の要求をもとにに○一から○九と名づけた特攻兵器の製造を決める  4月17日 日本陸軍、大陸打通作戦開始  5月27日 米軍、ビアク島に上陸  6月2日 海軍、ビアク島で決戦を企図し「渾作戦」を発動、連合艦隊を出撃させるが、米軍のマリアナ諸島侵攻で中止  6月6日 連合軍によるノルマンディー上陸作戦開始(映画「史上最大の作戦」「プライベート・ライアン」など)  6月9日 ソ連軍、フィンランドに侵攻  6月11日 米軍、マリアナ諸島に空襲開始。サイパン上陸の前ぶれ  6月15日 米軍、マリアナ諸島攻略を開始、サイパン島上陸  6月16日 中国・成都基地から米軍の重爆撃機B‐29、北九州を初空襲  6月19日~20日 マリアナ沖海戦で日本海軍機動部隊敗北 https://gendai.media/articles/-/65255  6月24日~7月4日 米機動部隊艦上機、硫黄島に来襲。米艦隊は硫黄島に艦砲射撃https://gendai.media/articles/-/84318  7月3日 日本陸軍はインパール作戦を放棄  7月7日 サイパン島の日本軍玉砕  7月18日 東条内閣総辞職  7月21日 米軍、グアム島に上陸  7月22日 小磯國昭内閣成立  7月24日 米軍、テニアン島に上陸  7月31日 飛行家・作家のサン=テグジュペリがフランス・マルセイユ沖で消息を絶つ  8月3日 テニアン島、10日、グアム島の日本軍玉砕  8月5日 大本営政府連絡会議を最高戦争指導者会議と改称  8月5日 オーストラリアのカウラ捕虜収容所で日本人捕虜1100人が蜂起、231人が死ぬ(カウラ暴動)https://gendai.media/articles/-/66287  8月16日 海軍省、海軍航空技術廠に○大兵器(人間爆弾・桜花)の試作を命じ、搭乗員の志願者募集を始める https://gendai.media/articles/-/119206  8月20日 在支米軍機80機による九州空襲  8月24日 パリ市民、対独武装蜂起  8月25日 連合軍によるパリ解放(映画「パリは燃えているか」「愛と哀しみのボレロ」など)  9月8日 ドイツがV2ロケットによるロンドン攻撃を始める  9月9日~12日、ダバオ水鳥事件、セブ事件で、フィリピンの日本軍航空兵力激減https://gendai.media/articles/-/99612  9月13日 海軍省に海軍特攻部発足。仮名称だった特攻兵器に制式名がつく。○四は震洋、○六は回天、○大は桜花  9月15日、米軍、ペリリュー島に上陸  10月10日 米機動部隊艦上機、沖縄を空襲  10月12日~16日 台湾沖航空戦。幻の大戦果と引き換えに日本軍航空兵力の多くを失い惨敗  10月17日 フィリピンのレイテ湾スルアン島に米軍上陸、  10月18日 海軍、フィリピンでの決戦を企図し「捷一号作戦」発動  10月20日 大西瀧治郎中将、第一航空艦隊司令長官になり、神風特攻隊編成https://gendai.media/articles/-/58099  10月21日 特攻隊初出撃  10月25日 特攻隊、初めて突入に成功。  比島沖海戦(23日~25日)で日本海軍連合艦隊壊滅、レイテ島の敵上陸部隊の殲滅は失敗に終わる https://gendai.media/articles/-/82587(映画「連合艦隊」「あゝ決戦航空隊」など)  11月1日 新聞朝刊、1枚2ページに削減される  11月20日 第一航空艦隊司令部、マニラからバンバンへ  11月21日 在支米軍のB-29、九州を空襲 https://gendai.media/articles/-/92776  11月24日 マリアナ基地の米軍機B‐29、東京の中島飛行機工場を爆撃、本土空襲の本格化  11月27日 ペリリュー島の日本軍玉砕  12月7日 東海沖で地震発生。M7.9、死者行方不明者1223人、軍需工場に大被害  12月13日 名古屋の三菱発動機に空襲。死者330人、負傷者356人、工場に甚大な被害。以後、軍需工場への爆撃続く  12月15日 米軍、ミンドロ島に上陸  12月15日、ビッグバンドリーダーのグレン・ミラーがイギリスからフランスに移動中、乗機が消息を絶つ

 

来年は最後の節目の年となる

2002年12月の「零戦の会」(元零戦搭乗員の戦友会)の忘年会。手伝いの戦後世代をのぞき、50数名の元搭乗員が写っているが、20年あまりを経たこんにち、存命なのは1人だけである

 「80年」といえば、当時20歳だった人が100歳となる途方もなく長い時間である。そもそも、日本陸海軍が存在した期間(73年)よりもはるかに長い時間が、終戦からこんにちまでの間に流れた。だがそれでも、「あの戦争」を振り返り、歴史に埋もれた話を発掘することは、幸いにして戦後戦争から遠ざかっている日本人にとって、平和を保ち、今後を生きる上で多くの示唆を含んだ大切なことであることには変わりはないと思う。  この20年~30年のあいだに、かつて軍人だったほとんどの戦争体験者が鬼籍に入ってしまった。時間は戦争よりも確実に人の命を奪う。いまや、実戦経験者から系統だててインタビューするのは事実上不可能になってしまったが、存命の当事者を何人かは存じ上げている。そういう意味では、「80年」が、当事者がいる最後の節目の年になりそうである。  「戦後80年」そして「昭和100年」となる来年、2025年にかけ、私は、過去のインタビューの掘り起こしが主になるのはやむを得ないけれども、できる限り、取材を通して知り得た、「あの戦争」を体験した人たちの声を伝えていきたいと思っている。  『太平洋戦争の真実』  『カミカゼの幽霊』

神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

 

以上、転載。

 

今でも後悔しているのが、父親からファミリー・ヒストリーを聞いておけばよかった。

特に、朝鮮総督府警察官時代、応召後の陸軍時代の話を語ることはなかった。