家族史から見た日本近代史~戦前の78年間を俯瞰する 広島県歴史教育者協議会 月例会(12月)案内

 

”遺言”三部作の1部は、「家族史から見た日本近代史~戦前の78年間を俯瞰する」。

 

我が家に残る西南戦争の遺物(官軍が残したもの)、「地券」、写真、軍歴証明書、戸籍謄本などの資料・史料を使って、戦前78年間をざっと振り返ってみました。

 

11月25日(土)に、歴史教育者協議会の中国ブロック大会が広島市であったので、全体会に参加し、ついでに案内してきました。

祖父(父方)は、2回(20歳と34歳)、従軍しています。

この写真(印刷)は、平壌守備歩兵の際に、入手したものだと思われます。

「熱河作戦」。

「義州」、平安北道の道都。

上の2枚は、父親が熊本の第6師団で徴兵(20歳)の際のもの。

「大矢の原演習場」。

初等兵。おそらく20歳のとき。

襟章(腕章)が変化しています。

たぶん上等兵になったためか?

 

戦前の78年間(いわば日本近代)はどういう時代だったのか。

家族史と明治維新、西南戦争、日清・日露戦争、韓国併合、アジア太平洋、ヒロシマ原爆・・・。

私(鹿児島・蒲生生まれ)と広島、原爆は関わりがないと思っていました。

しかし色々調べるとそうではなかった。

叔父(母親の長兄)の妻は、呉出身ですし、従姉は呉生まれ。

その叔父は、1941年12月17日、南洋で潜水艦で戦没(友軍の潜水艦と衝突)。

その妻と娘(従姉)は、叔父の実家に行きましたが、1945年8月下旬、叔母の被爆の知らせを受け、鹿児島から広島へ向かいました。

広島の救護所へ(体育館の講堂?場所は不明)。

 「みんな寝ていた。う~う~うなっていた。おばさんは薄い着物で、薄い所が焼けていた。(お腹辺りが)ドロドロだった。真っ赤だった。ひどかった。臭かった。臭いまで覚えている。もらったおにぎりは、臭くて食べられなかった」(従姉)。

 

なぜ呉の女性と結婚したのか。不明ですが、叔父が呉で知り合ったのか。あるいは、祖父(叔父の父親)が日清・日露戦争で戦艦に乗っていたので、その関係で知り合ったのか。

潜水艦呂66号は、佐世保が船籍。はたして呉に来たのか。

あるいは、乗船前に、呉で訓練を受けたのか。

 

「戦後が戦前にならないために」