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「数奇な運命」 原爆の記録として評価されながら3年間出版できず 記憶遺産目指す大田洋子『屍の街』(上)

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47NEWS

大田洋子=1950年10月撮影

  原爆に被爆した作家が直後に書きつづった小説や詩、日記などの自筆原稿をユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に―。市民グループ「広島文学資料保全の会」(土屋時子代表)と広島市が共同で、被爆80年となる2025年の登録を目指し、国内選考に申請した。

  15年と21年にも申請したが国内審査で落選、3回目になる。これまでに峠三吉や栗原貞子、原民喜の関係資料を申請対象としたが、今回は作家、大田洋子の『屍の街』(しかばねのまち)の自筆原稿を加えた。 

  『屍の街』は被爆直後の混乱を生き延びた作家が被害の実相をつぶさに描き、原爆が非人道的な兵器であることを訴えた貴重なルポルタージュだが、出版をめぐって検閲や自主規制に翻弄(ほんろう)され、数奇な運命をたどった。

 その意味でも「世界の記憶」に加えることには大きな意味がある。(ノンフィクション作家、女性史研究者=江刺昭子)

   『屍の街』はどのような作品か。原爆投下直後の場面を引用する(いくつかの版があるが、以下の引用はすべて1950年刊の冬芽書房版により、漢字は常用漢字に改め、現代仮名遣いを用いる)。

『屍の街』(1950年5月出版の冬芽書房版)

 そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。(略)気がついたとき私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやりと佇(たたず)んでいた。ひどくぼんやりとして、ばかのように立っていた。

  家は倒壊し、耳と背中に軽い傷は負ったものの、母たちと近くの河原に逃れ、三日三晩を過ごす。町は焼け崩れて瓦礫(がれき)の原になり、人びとがあいついで死んでいった。

  大田洋子は広島市白島九軒町で被爆した。作家として東京にいたが、空襲が激しくなり、45年1月、母と妹が住む広島の家に引っ越していたのだ。 

 03年、広島県原村(現・北広島町)に生まれ、玖島村(現・廿日市市)で少女時代をすごした。29年に雑誌『女人芸術』に小説を発表して文壇デビュー。『中央公論』と『朝日新聞』の懸賞小説でそれぞれ一席になり流行作家になった。

  被爆後の作品には、作家としての強い覚悟がうかがえる。『屍の街』から、一緒に歩く妹との会話を引用する。

 

 「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ちどまって死体を見たりはできませんわ。」 

  妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。 

 「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」  「書けますか、こんなこと。」  「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」 

 玖島の知人の家に落ち着いて、ほっとしたのもつかの間、奇妙な現象に直面する。山間部の村で、あの日広島にいて外傷も火傷(やけど)もなかった人が次々に死んでゆくのだ。 

 大田は一日に何度も自分の髪の毛をひっぱって抜け毛の数をかぞえ、いつあらわれるかしれぬ皮膚の斑点におびえた。そして、書き急いだ。  この『屍の街』の自筆原稿を「世界の記憶」に登録するためには、撮影してデジタル化する必要がある。自筆原稿は現在、日本近代文学館が収蔵しているが、この目的のみに使用することという条件で特別撮影が許可された。 

 撮影は今年4月18日に行われ、記憶遺産の共同申請者である「広島文学資料保全の会」(以下「保全の会」)から依頼されてわたしも協力した。わたしは、大田の晩年の1年半、同郷の彼女の自宅に下宿した。その後、彼女のことを調べ、71年に『草饐(くさずえ) 評伝大田洋子』を出版、田村俊子賞を受けた。協力依頼はその縁による。 

『屍の街』(1948年11月出版の中央公論社版)

 撮影は終日、立ちっぱなしの作業になった。天井の光が写り込まないように天幕を張り、撮影装置を据える。わたしはカメラマンに原稿を渡す役。茶色く変色した原稿用紙は薄く、破れそうだった。

  大田の大ぶりな力強い字で書きつづられた原稿に触れるのは、感慨があった。原稿枚数は、扉と目次2ページを合わせて308ページになった。 文章の終わりまでの全文はライトブルーのインクで書かれているが、そのあとにダークブルーのインクで「二十年十一月」と書き終えた年月が書き込まれ、再びライトブルーのインクで「(終)」とある。なぜ年月だけが違うインクで書かれたのか。最初にその謎が浮かぶが、先に自筆原稿に使われた紙の謎を解いておきたい。 

  自筆原稿の紙は、種類もサイズもさまざまな原稿用紙と大小のワラ半紙だった。しかし『屍の街』は「茶色にすすけた障子紙やちり紙」に書かれたと言われてきた。大田自身が50年刊の冬芽書房版の「序」に次のように書いているのだ。

 

 当日、持物の一切を広島の大火災の中に失った私は、田舎へはいってからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持っていなかった。当時はそれらのものを売る一軒の店もなかった。寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った。

  大田没後の70年、わたしは大田のパートナーだった筧中(といなか)静雄に取材し、確認した。筧中はこう振り返った。「紙のない頃で、ひどいのはちり紙に書いて束にしてあったですよ」 

  障子紙やちり紙に書いた原稿は「二十年十一月」に完成した。翌46年初めに雑誌『中央公論』編集部に送り、高く評価されたものの、出版されず送り返された。

  その後、48年に再び中央公論社に持ち込むまでの間に、かき集めた原稿用紙やワラ半紙に書き直したものが、現在、日本近代文学館にある「自筆原稿」だと推定できる。

 そのため入稿に際し、原稿末尾に「二十年十一月」と書き足したのであろう。それにしても、最初の出版(中央公論社版)は3年後の48年11月までずれ込んだ。しかも、その内容は元の自筆原稿とは大きく異なっていた。  さらに、中公版の刊行からわずか1年半後の50年5月、今度は冬芽書房から「完本」として出版された。これほど短期間に別の出版社から再刊されるのは異例だ。この冬芽版も自筆原稿そのままではない。なぜこのような、ねじれた経過をたどったのか。(続く)