Yahoo!ニュースより。

 

「壁面に骨片がびっしり刺さっていた」日本兵2万2000人が死亡した「絶望の戦場」

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現代ビジネス

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 なぜ日本兵1万人が消えたままなのか?

   滑走路下にいるのか、それとも…… 

 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査した北海道新聞記者・酒井聡平氏による『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が発売たちまち3刷決定と話題になっている。

【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 

 硫黄島に渡り、土を掘り、汗をかいた新聞記者が執念でたどりついた「真実」とは――。 

 「当機は間もなく硫黄島に到着します。座席ベルトを確認してください」  2019年9月25日午後1時2分。下降を始めた自衛隊輸送機C130の機内に、アナウンスが流れた。客室乗務員役の武骨な男性隊員の低い声は、「ウー」と唸るようなプロペラの轟音が響く中、なんとか聞き取れた。ハリウッド映画でしか見たことのなかった軍用輸送機の機内。空調機の風でかき回された機内の乾いた空気は、古い路線バスの車内のにおいと似ていた。

  埼玉県の航空自衛隊入間基地から硫黄島までの距離は1200キロ超。僕を含む政府派遣の遺骨収集団一行は搭乗前、飛行時間が約2時間40分であると知らされた。旅客機と違い、窓は少ない。だから暗い。僕の席から確認できた窓は8ヵ所だった。メタルグレー一色の壁面は、配線や配管、そして何か分からない突起物が至る所でむき出しになっていた。機体が揺れて、頭などをぶつけたら間違いなく出血するだろう。ヘルメット着用が前提の乗り物だと思った。あくまで軍用機なのだ。搭乗中は起立も移動も禁じられた。それは怪我防止ではなく、機内の装備に関する「軍事機密」保持のためかもしれない、とも思った。

  午後1時12分。機体は大きく左に旋回した。その際に、機体の下に広がる青一色の大海原が見えた。次に見えたのは緑一色の景色だった。「こんなに緑豊かな島なのか」。僕は驚いた。

  硫黄島は、激戦から七十余年を経て、焦土の島から、ジャングルの島になっていた。僕は、10歳の時に祖父の朽ちた履歴書を見てからの32年間を思い返し、万感の思いに浸った。  僕の祖父は、硫黄島関係部隊の兵士だった。

 

1987年、まだ何も知らなかった夏休み

僕が現在も手元で保管する祖父の履歴書。「父島」「母島」と記されている

 「硫黄島の戦い」とは一般に、米軍が上陸した太平洋戦争末期の1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦を指す。1日も早く硫黄島の飛行場を占領して日本本土爆撃を進めたい米軍と、1日でも長く飛行場を死守して本土侵攻を阻止したい守備隊が激突した。組織的戦闘が終わっても、守備隊側の生存兵の多くは投降せずに地下壕に籠もった。川のない渇水の島で、死よりもつらい喉の渇きにもがきながら、次々と絶命した。結果、守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した。 

 僕の祖父である酒井潤治が大戦末期、小笠原諸島の父島や母島にいた事実を祖母から教えられたのは、1987年の夏休みのことだった。僕は小学5年生だった。今、僕の記憶の中にいる当時の僕には、笑顔がない。祖母も同じだ。夏休みに入る1ヵ月前の6月11日、47歳だった僕の父、暲忠が職場で倒れ、急逝したためだ。母允子は悲しみに暮れた。父なき遺児となった僕は夏休みの一時期、父方の祖母トラノの家で過ごした。僕は「おばあちゃんっ子」だった。少しでも悲しみが癒やされれば、という母の配慮があったのだと思う。

  そんな祖母宅でのある日、僕は仏間に招かれた。祖母は祖父の仏壇の中から、今にもばらばらになりそうな、朽ちたつづら折りの書類を出した。  祖父が軍隊時代に携帯した履歴書だと教えられた。濡れた跡があり、にじんで読めない文字があった。祖父は戦時中、沈みゆく軍艦から生還したことがあったという。なんとか読める文字の中に「父島」と「母島」があった。硫黄島近隣の島々だ。履歴書がかろうじて伝えた事実。それは、硫黄島守備隊の兵士と共に小笠原諸島の防衛を担う部隊に祖父が所属していた、ということだった。

  祖父は終戦後「別人のように痩せて帰ってきた」と教えてくれたのも祖母だった。隣の硫黄島の兵士たちは玉砕したのだから、祖父は幸運だったと言えるのだろう。だが、戦争で消耗した体は以前のようには回復せず、1965年に56歳で病死した。そしてその長男である、僕の父も1987年に47歳で急逝した。祖父の足跡や人柄などを聞く前に、父は天国の祖父の元に旅立ってしまった。だから、現在46歳になった僕が知る祖父の情報は「硫黄島の隣の島から衰弱して生還した元兵士」ということだけだ。  祖母は、僕に履歴書を見せたとき、こんな話をした。

  「お父さんはもういないから、聡ちゃんが大きくなったら大切に預かってね」 

 父ができなくなったことは、自分が果たさなくてはならない。そんな使命感のような思いがこの時、幼い心に刻まれた。そして、その履歴書は、2008年に93歳で他界した祖母の願い通り、今、僕の手元にある。

 

遺児の僕、硫黄島の戦没者遺児と出会う

写真:現代ビジネス

 祖父の履歴書を見て以来、僕は硫黄島への関心を持ち続けた。関心が一段と大きくなったのは大学卒業後、北海道苫小牧市の地域紙の記者になってからだ。2006年、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」が公開された。人気アイドルグループ「嵐」の二宮和也さんが主要キャストを務めたこともあり、若い世代も関心を寄せた。二宮さんが演じたのは、待望の第一子の誕生を目前に控えながらも、召集令状によって硫黄島に送り込まれたパン屋の店主だった。彼の視点を通じ、玉砕に至る激戦の経過が概ね史実に即して描かれた。

  一方、映画では描かれなかった事実がある。それは、本土の防波堤となるべく散った硫黄島兵士たちの戦後だ。玉砕した2万人超のうち1万人の遺骨が今なお島内に残されている。僕はこの事実を、映画鑑賞後の運命的な出会いによって知ることになった。

  その出会いの相手とは、当時74歳だった三浦孝治さん。札幌のベッドタウン、恵庭市に住んでいた。定年退職後の第二の人生を、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児だった。地域の行事で出会った際、本人からそんな半生を打ち明けられた。

  三浦さん宅は、僕の職場兼住居だった恵庭支局から徒歩5分の住宅地にあった。何度、話を聞きに行ったことか。何度、遺骨収集の写真を見に行ったことか。三浦さんは背が高くてがっちりした体格のお年寄りだった。筋肉質なのは、父亡き後の家族を支えるためにがむしゃらに働いたためだと思われる。「おかげでこの歳になっても遺骨収集に行けるんですよ」。いつも明るい声。いつも笑顔だった印象だ。電話での第一声は決まって「さかいさーん」と弾んだ声。僕は今でも硫黄島に関する何かをしているとき、その声を思い出す。生前、そうだったように、今も変わらず三浦さんと二人三脚で硫黄島のことに取り組んでいる気持ちでいる。

  地域紙の記者は全国的、あるいは世界的な世相を地域社会に反映させて報道するのが職務だ。映画の公開で硫黄島への社会的関心が高まったことを受け、僕は三浦さんの遺骨収集体験を伝える記事を連載しようと考えた。初めて会った時点ですでに15回、遺骨収集団に参加していた三浦さんの話は壮絶だった。「ある壕に入ると、壁面に骨片がびっしり刺さっていた。砲爆撃を浴びたのか、手榴弾で自決したのか。そんな壕は一つや二つではなかった……」。 

 国の命令で絶望の戦場に送られ、体が四散どころか粉々になったまま放置された兵士は大変不憫だが、それを自分の父と重ねて骨片の一つひとつを壁面から抜いて集める高齢の遺児たちもまた不憫だと思った。 

 三浦さんの遺骨収集体験を綴った連載「矢弾尽き果て 悲劇の島・硫黄島」の反響は、それまでの記者人生で最大だった。映画が描いたのは日米の激戦であり、散った兵士の遺児の戦後は伝えられなかったことも大きな要因になったと思う。硫黄島のその後について知りたがっている人たちは、確かに存在している。そんな思いを強くした。

酒井 聡平(北海道新聞記者)

 

以上、転載。

 

今年、鹿児島県庁から叔父(母親の弟)の軍歴証明書を取り寄せた。

 

「履歴書」

陸軍 上等兵  大正8年生まれ。  私の母親は大正5年生まれだ。

〇1940(昭和15)年2月 工兵二等兵 工兵第6連隊補充隊に入隊

                         工兵第23連隊に転属

            2月22日  門司港出帆 25日 大連港上陸

                     関東州界通過 興安北省策倫旗堺通過

            8月1日 工兵一等兵

            9月15日 一等兵

〇1943(昭和18)年2月1日 上等兵 戦車第1師団工兵隊に転属

                   海拉爾出発~牡丹江省~釜山~下関

                   ~除隊 2月12日 予備役編入

             11月3日 工兵第46連隊に応召

〇1944(昭和19)年6月28日 横須賀~小笠原諸島父島~硫黄島上陸(7月14日)

              11月2日 内地還送のため硫黄島出発(空路)

                     ~所沢陸軍病院に入院~鹿児島陸軍

                     病院に転院(8日)~治療退院(28日)

                     ~原隊復帰・内地勤務

〇1945(昭和20)年1月6日 召集解除

 

いわゆる”硫黄島玉砕”とは、

「1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦を指す。(中略)守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した」

 

叔父は負傷により前年11月に内地のに戻ってきて、翌1月には”召集解除”となっている。

負傷せずに硫黄島に残っていたなら、おそらく戦死していたのではないか。しかも叔父(母親の長兄は1941年12月17日に南洋で死亡、友軍の潜水艦と衝突)のように”遺骨”はなかったかもしれない。