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なぜ硫黄島で日本兵1万人がいまだ行方不明なのか…多くの人が知らない「その決定的な理由」

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現代ビジネス

〔PHOTO〕iStock

 この夏、戦争の記憶を記録する2冊のノンフィクション作品が上梓された。  神立尚紀氏の『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)と酒井聡平氏の『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)だ。

【写真】いまだ「日本兵1万人」が行方不明「硫黄島の驚きの光景…」 

 『カミカゼの幽霊』は約70年を経て名乗り出た遺族の証言を元に人間爆弾を発案した特務士官・大田正一の正体を追い、『硫黄島上陸』は、遺骨収集団の一員として硫黄島に上陸した現役新聞記者が、日本兵1万人がいまだ行方不明の謎に迫る。

  戦争の記憶が風化し、「新しい戦前」という言葉が生まれる状況の中、なぜ戦争を記録し続けるのか。特別対談、後編!

   (構成:岩本宣明、撮影:林直幸、8月15日収録)

硫黄島で戦没者1万人の遺骨が見つからない理由

酒井聡平氏

 ――酒井さんの『硫黄島上陸』は遺骨収集が進まないこと、神立さんの『カミカゼの幽霊』は人間爆弾を作った男のその後の人生がテーマです。お二人が今回の著書で一番解明したかったことは何だったのでしょうか? 最後まで「分からなかった」ことについても教えてください。 

 酒井 硫黄島には約2万3000人の守備隊兵士がいて、生還者は5%です。2万人の戦没者の半分の遺骨しか見つかっていないことは分かっていました。念願かなって2019年に初めて硫黄島に渡ったとき、こんな小さな島で、在島の自衛隊がいて、なぜ1万体が見つからないのか、非常に疑問に思いました。そして、そのミステリーに挑んだ記者は私の知る限りいませんでしたから、私が挑んでみようと思ったのです。

  その答えは『硫黄島上陸』に詳述しましたが、大きな理由の一つは、ご遺骨の風化が進んでいなかった昭和20~30年代に遺骨収集が1回しかできなかったからです。沖縄と比較すると分かりやすいのですが、沖縄では、終戦直後から住民が自主的に遺骨収集し、90%以上見つかっていることになっています。一方の硫黄島は、戦後、住民がいなくなり、遺骨収集も1度しか行われなかったのです。 

 「収集が1度だけだったのは、核の貯蔵基地だったからで、機密保持のためだったのではないか」というのが、日米の機密文書などを読み解いた末の私の説です。どうしても分らなかったことは、硫黄島返還時の「核密約」に関する真相です。アメリカが有事核貯蔵を提案した際に、日本政府はイエスと言っているのかどうか。そこは結論に至ることができませんでした。少なくとも言えることは、アメリカから核を持ち込むと言われて、日本は非常にあいまいな答えをしたということです。

  神立 ぼくが『カミカゼの幽霊』で解明に挑んだのは、人間爆弾「桜花」の発案者として知られる大田正一という人物の正体です。「桜花」というのは、攻撃機に搭載する爆弾の命中率を上げるため、1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席とロケットをつけて人間に操縦させ、敵艦に体当りするという兵器です。大田については、秦郁彦さんの『昭和史の謎を追う』などに断片的な記述があるだけで、その詳細な経歴は分かっていませんでした。さらに、大田は公的には敗戦直後、自死したことになっていますが、戦後に何度も元同僚らに目撃され、生存説が囁かれていました。桜花の搭乗員の多くは零戦の搭乗員と重なるので、「桜花」を擁した「神雷部隊」の取材も重ねていましたが、大田については口を閉ざす人が多く、不思議に思っていました。 

 謎は他にもありました。海軍では兵学校出身のエリート士官と、兵隊上がりの特務士官の間には厳然とした身分の差があります。大田は特務士官です。その、いまでいうノンキャリの大田のアイデアが、海軍のエリートを動かすに至ったのはなぜなのか。

  取材のきっかけはご遺族からの連絡でした。自死したはずの大田は戦後、戸籍を失い名前を変えて生き、家族もいたのでした。大田が「桜花」の発案者とされた本当の理由はなんだったのか。その大田は、戦後、どのような生涯を送ったのか。その謎の解明に挑みました。

  大田の生涯についてはかなり明らかにできたと思いますが、「戦後の数年間の空白」はどうしても埋められませんでした。また、桜花が大田の発案であったことは事実としても、その発案を採用し、実現させたほんとうの責任者は誰だったのかについても、明確な証拠はつかめませんでした。当時の軍令部で航空作戦の中心にいたのは源田実で、特攻そのものを推進したのが軍令部第二部長の黒島亀人、それを承認したのが軍令部第一部長の中澤佑であり、彼らが3大責任者ということは分かっていました。が、このうちの誰が「桜花」開発の責任者だったのか。状況証拠でいえば源田なんですが、桜花は特攻の中でも、戦後最も批判された作戦の一つでしたから、さまざまな資料を漁っても、さすがに容易に尻尾を掴ませてくれませんでした。源田は、戦後に航空自衛隊の幕僚長に上り詰め、退官後は自民党の参議院議員を務めています。

 

戦争体験者がいなくなる時代にできること

写真:現代ビジネス

 ――戦後78年が過ぎ、当事者や体験者の死去や高齢化による戦争の記憶の風化が深刻です。そういう中で、今後、どのような手法で事実の発掘ができるとお考えですか。 

 神立 終戦の時点で、約3700人の零戦パイロットが生き残っていました。ぼくが取材を始めた戦後50年の1995年には約1100人が存命でした。言葉は適切ではありませんが、どなたを取材するか、取捨選択に頭を悩ませたほどの数です。それが2002年に約700人になり、2016年に約200人、今年は集計中ですがおそらく20人くらいです。さらに、その子ども世代の訃報が続くような状況です。致し方ないことです。

  ご存命の方でも、長く付き合っていると、話が大きくなってくることはよくあります。例えば、零戦で飛んだ最高高度がだんだん高くなったりして、過去の証言と違ってくるんです。最初に出会った原田要さんは、90代半ばになった晩年に新聞やテレビに引っ張りだこになりましたが、サービス精神で相手に喜ばれるようなことを言おうとされたのか、内容がかなり大袈裟になっていました。 

 今でも、ご遺族を丹念に訪ね歩くと、眠っていたアルバムが出てくるようなことはありますが、証言に頼った新規の取材はいよいよ難しくなっています。

  が、昨日、ひとつ再認識したことがあります。1979年に海底から引き揚げられた戦闘機「紫電改(しでんかい)」に関するNHK特集の再放送を見たのですが、当時の隊員の生の声を聞くことができ、当事者の言葉の重さを改めて実感しました。8月ジャーナリズムのおかげで、テレビ局や新聞社、出版社には、当事者の記憶が生々しい時代の証言がたくさん眠っているはずですから、それを丁寧に拾っていくことも重要だと思います。

  酒井 『硫黄島上陸』に、99歳の元学徒兵・西進次郎陸軍伍長のインタビューを掲載しています。硫黄島の生存者は約1000人しかおらず、当時30代後半ですから現在100歳を超える人ばかりです。ですから、硫黄島戦を経験した人はいないと思っていたんです。

  ですが、粘り強く探していたら、硫黄島戦は経験していなくても、地上戦の直前まで、硫黄島にいた学徒兵がいることがわかりました。その経験から、まだ諦める時ではないと考えています。また、当時の記録には、16歳の朝鮮人軍属がいたことも残されていますから、北朝鮮や韓国にはまだ硫黄島戦の経験者がいるかもしれません。そのリサーチを韓国側の団体を通じて始めようと考えています。 

 もう一つは、神立さんのご指摘と重なりますが、当事者の証言だけではなく、一次情報・資料にあたることの重要性です。これまでの8月ジャーナリズムは、戦争経験者に話を聞いてそれを伝えることに重きが置かれ、一次情報や資料の発掘は、新聞記者が必ずしも力を尽くしてきたとは言えない部分です。

  今回、私は私的な時間を割いて多くの一次資料を読み解きました。それで分かったのは、アメリカは硫黄島の戦中、戦後についてかなり緻密な記録を残しているということです。私も含め、半世紀以上前の米文の資料を読み解くスキルを高めていかなければいけない。時代時代において、戦争報道は変わってきていると思います。 

 神立 一次資料はまだまだ埋もれているので、その読み解きはできるはずです。防衛省は所蔵庫にある資料を未だに全ては公開していませんし、アメリカにも資料は大量にあります。ぼく自身、28年前に取材を始めてからのテープやメモを保管していますが、当時は経験や知識が足りなくて重要性が理解できなかったけれど、いま見返すと驚くべき証言があったりしますから、これまでの約500人の取材データと一次資料を突き合わせる作業をしたいと考えています。

  それから、ぼくはSNSに可能性を感じています。ぼくの本に祖父や曽祖父の名前が出ていたと、連絡してくださる方が多いのです。ぼくのSNSのタイムラインには、同じ部隊にいた人たちがいたり、一人の元搭乗員に繋がる互いに面識のない親戚がいたりと、さまざまなことが起こっています。  「伝承」という意味では、子供の世代には親が軍人だったことに複雑な感情を抱く人が少なくありませんが、孫や曾孫の世代になると、純粋に祖父や曽祖父のことを知りたいという人が多いので、“祖父同士が戦友の会”という試みも面白いと思っています。ぼくはNPO法人「零戦の会」の代表も務めていますから、戦争体験者の孫や曾孫の世代を結びつけることで、何か新しいことが生まれることを期待しています。

  酒井 SNSの可能性については共鳴・共感します。取材成果をSNSで発信する記者は多くありません。私は終戦75年のときにツイッターを始めました。すると面白いことが起きました。硫黄島と戦争の話題ばかりを発信していると、それに関連する情報が集まってくるのです。驚きの情報もありました。つまり、ある分野に特化した情報を発信し続けると関連する情報・話題がどんどん集まり、プラットフォーム化するということです。そういうことをいろんな記者がやっていけばいいなと思います。

  8月ジャーナリズムは、終戦80年90年を前に、戦争当事者なき時代の報道を考えなければならない時期に差し掛かっています。一次情報の読み解きやSNSの活用など、今後の戦争報道のために、新聞記者には工夫と努力が求められる時代になっていると思っています。

  (了)

酒井 聡平(北海道新聞記者)/神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

 

以上、転載。

今年、初めて叔父(母親の弟)の軍歴証明書を入手した。

鹿児島県庁から取り寄せたものだ。

驚いたことは、叔父が硫黄島に派兵されていた。

負傷して内地(関東)に移動した。

その後、硫黄島は”全滅”している。