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「原爆ってやつは、大事な大事なおふくろの骨まで…」漫画『はだしのゲン』が伝えた被爆の実相とは【報道特集】

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核を巡る議論を考える時、果たして被爆地の声に正面から向き合ってきたと言えるのか。78年前の被爆の実相とは何か、原爆の恐ろしさを伝える漫画『はだしのゲン』が、広島市の平和教材から削除された出来事から、改めて考えていく。

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■“限られた時間内に、漫画の一部で被爆の実相を伝えるのは難しい” 被爆78年の広島。半世紀読み継がれてきた漫画作品をめぐり、大きな波紋が広がった。『はだしのゲン』が、広島市の平和教育の教材から削除され、別の題材に差し替えられたのだ。 

『はだしのゲン』とは、漫画家・中沢啓治さんが描いた、自身をモデルにした「ゲン」が被爆から立ち上がる物語。被爆者の団体などから、広島市教育委員会に抗議の声が相次いだ。 『はだしのゲン』は、広島市の小学3年生の平和教育の教材に家族のきずなを通して平和を大切にする心を持たせる、を目標に採用された。ゲンが家族の前で浪曲を歌う場面、病弱な母に生き血を飲ませようと鯉を盗む場面が使われていたのだが… 『平和教育プログラム検証・改訂会議』より 「浪曲でみんなを明るくしようとする状況が子どもには理解が難しい」 「鯉を盗む話など子どもたちの関心に合わないんじゃないか」 教育委員会側は、削除の経緯をこう話す。 広島市教育委員会 指導第一課長 高田尚志さん 「子どもたちに家族の大切さというのを教えようと思ったら、ゲンの家族がどういう家族だったかということをまず教えないといけない。本来の学習の目標にいくまでに教材研究とか教材作成に結構な時間を取られる。さらにそれを子どもたちに伝えるのにも結構な時間がかかる。代わりの教材を作っていきましょうとなった」 限られた時間内に、漫画の一部で被爆の実相を伝えるのは難しいと判断したという。 一方で、このことが報じられると、作品の販売数は急増。広島の書店でも、コーナーを設けての販売が続いている。『はだしのゲン』が伝え続けた実相とは何だろうか? 

■「原爆は大事なおふくろの骨まで取っていくのか」

『はだしのゲン』作者の“決意” 作者の中沢啓治さんは2012年12月、73歳でこの世を去った。生涯こだわり続けたのは、被爆の実相をいかに子どもたちに伝えるか。主人公のゲンは、中沢さん自身だ。中沢さんが強く影響を受けた父は、戦争反対を公言していた。

 

『はだしのゲン』より抜粋

 「資源のない小さな国の日本は、平和を守って、世界中と仲良くして貿易で生きるしか道はないんだ」 「日本は戦争してはいけんのじゃ」 その発言から逮捕され、非国民とののしられても、信念を貫く父を中沢さんは尊敬していた。一家が暮らす広島にその日が近づいていた。 

昭和20年8月6日。戦時下に夏休みはなく、その朝、当時6歳の中沢さんは普段通り登校した。校門をくぐろうとすると、同級生の母親に呼び止められた。そのとき、上空にアメリカ軍のB29が現れた。

 『はだしのゲン』作者の中沢啓治さん

 「あれ、B29じゃないかというと、おばさんもこうやって見上げて、あ、そうだって。そのB29が後方に消えてね、消えたと思ったらバッと光った」 世界で初めて原子爆弾が投下された瞬間だった。

 中沢啓治さん

 「光を見た瞬間に一切記憶がなくなって、気が付いたらこの塀が斜めになってのしかかってきて」 

奇跡的に街路樹と塀に原爆の熱線から守られた中沢さん。電車道に飛び出し夢中で自宅を目指した。電停にたどり着き、左側の歩道を見ると、かっぽう着姿の母が座っていた。 再会した母は、被爆のショックで産気づき、女の子を産んでいた。そこで、家の下敷きとなった父、姉、弟が亡くなったことを告げられた。 

中沢さんの妻・ミサヨさん。

夫が語った母への思いは、被爆後を生きる大きな力だったと感じている。 中沢さんの妻・ミサヨさん

 「俺はね、おふくろが生きていたからこそ、まともな人生を送ることが出来たんだと。もしあの時に母親に会えなかったら、広島市内のどこかで野垂れ死にしていただろうって」 その最愛の母の死が中沢さんを変える。母を火葬した時のことだ。 

中沢啓治さん

 「いくら探しても骨らしい骨がないんですよ。こんなバカなことがあるかって」 放射能が母の骨を食いつくしたと確信した。

 中沢啓治さん

 「原爆ってやつは、大事な大事なおふくろの骨まで取っていくのかって、ものすごい怒りがあった。お袋の弔い合戦をしてやるっていう気持ちで」

 

漫画家として原爆を告発するという決意だった。

 ■「ゲンとともに生き抜いた」 

妻が見た『はだしのゲン』作者の姿

 妻のミサヨさんの心に強く残るのは、母の葬儀を終え、当時暮らしていた東京へ帰る列車の中での夫の姿だ。

 中沢さんの妻・ミサヨさん

 「一切しゃべらないんです、家に帰ってまで。何か重く考え事してるんです。“おれは構想を練ってたんだ”っていうんです、怒りで。もう原爆を絶対許せないという思いがあったんでしょ」 そして、初めての原爆漫画を描き上げる。その先に生まれたのが『はだしのゲン』だった。

 中沢さんの妻・ミサヨさん

 「なぜ戦争が起きたか、なぜ原爆が落とされたか、それをどう思うか、子どもたちに具体的に読ませるにはどうしたらいいかって、もうすごく悩んで描いてました。実相はとにかく細かく書き残したいという思いがあったんですよ」 創作を交え、父、姉、弟が亡くなる場面を克明に描いた。

 中沢さんの妻・ミサヨさん

 「あそこをペンで描くときはね、顔を描くじゃないですか、熱かったろうなとか、痛かったろうなとかね、そういう思いが浮かび上がるらしくて、つらいと言ってました」 それでも、描かないわけにはいかなかった。

 中沢さんの妻・ミサヨさん

 「こだわったのは、原爆、戦争への怒りですよ。一生、原爆を離すわけにはいかない、ゲンとともに生き抜いたというか、人生を過ごしたというか」 ■「人の上を歩くと、足がのめり込むんですよ、内臓の中に」 

被爆者たちは、それぞれの体験を抱えながら戦後を生き抜いてきた。 平和記念資料館の第9代館長を務めた原田浩さんは、中沢さんと同じ当時6歳だったあの朝、親戚の家に疎開するために、広島駅のホームで7時30分発の列車を待っていた。しかし、その列車が一向に来ない。そして、8時15分を迎える。 

元平和記念資料館館長 原田浩さん

 「父はとっさに私の身体を守ってくれて、自分のお腹の中に入れて四つん這いになって、それで私は奇跡的に助かった」

 

しばらく気絶していたが、意識が戻り、父とがれきの下から這い出ると… 原田浩さん

 「まさに静寂そのものといいましょうか。音は全く聞こえないし、市街地がすべてなくなってました。広島駅の駅舎だけが残ってました」 

その様子が描かれた絵がある。原田さんの証言をもとに高校生たちが描いた被爆の姿。多くの人が水のある場所に殺到した。炎と熱風が迫る中、父に手を引かれ東の方向へ逃げ続けた。

 原田浩さん

 「死体か、死体になる前の最後の息をした人もいたが、そういう人たちが無数に転がってましたんで、足の踏み場がない。人の上を歩くとね、足がのめり込むんですよ、内臓の中に。皮膚が取れとるから、踏んだら足がずぶっと入るんです。抜いたら次の足で踏むしかない。今考えても、どうしてあんなことして生きたのか、懺悔の念というか、つらいところですね」 爆心地から1.2キロでは、その日のうちに50%の人が亡くなり、それより爆心に近いと死亡率は80%から100%。あふれた遺体は、次々と焼かれていった。

 ■なぜ被爆地となったのか

 広島は「軍都、加害の町だった」 その現場を何度も目撃していたのが、当時15歳の切明千枝子さんだ。

 切明千枝子さん

 「山のように積み上げては油をかけて焼き、そこに穴を掘っては埋め、川のほとりだったら焼けた骨は川の中に捨てる。もうむごいもんでしたね」 切明さん自身も、学校の校庭に穴を掘り、犠牲になった友人を火葬した経験を持つ。

 切明千枝子さん

 「何人焼いたかわかりません。覚えてないです、人数は。次から次へ、かわいそうでした」 

なぜ、広島は悲惨な被爆地となったのか。

『はだしのゲン』に、こんな場面がある。 『はだしのゲン』より抜粋 「広島市は軍都として栄えた都市でもあります。宇品の波止場からは南方の戦地へ送り出される兵士であふれていました」 その桟橋の跡が残る旧宇品港。ここは、陸軍出兵の拠点だった。

 切明千枝子さん

 「小学生のころ、日中戦争が始まったら毎日、毎日、先生に連れられて、宇品の波止場まで行くんですよ。兵隊さんを戦場に送る、旗ふって、万歳万歳って」

 

広島にはかつて大本営が置かれ、帝国議会も開かれたことがある。

 切明千枝子さん

 「広島は発進地でもあったし、武器、弾薬、軍服、そんなものの供給地でもあったし、まさに軍都、加害の町だったと思いますね。だからそのことを忘れて抜きにして、原爆の被害を語ることは出来んと思いますよ」 そんな軍都・広島を体現する建物が残っている。軍服などを製造、貯蔵していた陸軍被服支廠だ。被爆を乗り越えた最大級の建物で、保存への動きが高まっている。切明さんは、ここで軍服を洗濯する仕事に動員されていた。 切明千枝子さん 

「タバコの焼け焦げかなと思って反対側を見たら、血がべたっとついている。銃弾が貫通しとるんですよ。新しい布がなかったのか、古着を処分しないでもう一度使うという算段だったんでしょうね。こんなことで勝てるんかなと思った。神風は吹きませんでしたね。原爆の爆風が吹きました」 レンガ倉庫は被爆後、負傷者の救護所となり、切明さんの祖母も運び込まれていた。

 切明千枝子さん

 「1階の入り口はいってすぐのところに寝かされていた。息が詰まりそうだから外へ出してくれ出してくれというんですよ。一刻もここの中には、ようおらんって。阿鼻叫喚の巷になっている。糞尿垂れ流し、やけどの臭い、血膿の臭い。死んでもいいから外へ出してくれと」 

■原子力の“平和利用”という言葉が果たした“効果” 

そんな惨状から1年後の広島の地元紙には、意外な見出しが並んでいる。 「広島市の爆撃こそ原子時代の誕生日」 「米日合作都市 恩讐越えて再建せん」 アメリカ占領下にあった状況が色濃く反映されていた。さらに1年後、被爆2年の広島は、祝祭的な空気に包まれていた。平和祭と名付けられた催しで披露されたのは、平和音頭。『はだしのゲン』にも描かれた。 『はだしのゲン』より抜粋 「ピカッとひかった原子の玉にヨイヤサー、とんであがった平和のハトよ」 新聞の見出しには「歓喜でもみくちゃ」とある。 切明千枝子さん 「どんちゃん騒ぎだったんですよ。仮装行列、盆踊り大会みたいにみんなが踊りながらパレードしたり。みんな大きな苦しみや悲しみを抱えていたんですけど、それを押し隠して、元気を出してにぎやかにやろうってことだったんだろうと。3、4年続きましたね、それからだんだんちょっと違うんでないのという意見も出てきたり」

 

被爆地の意識は、長い時間の中でその価値観が揺れながら変容していった。記憶をいかに継承するのか、被爆の苛烈さを物語る痕跡を残すのか。 今や世界遺産となった原爆ドームについて、当初、平和記念都市建設計画の委員長はこう考えていた。 「残骸は決して美しいものではない。平和都市の記念物としては極めて不似合のもの」 その後、保存か否かをめぐり、議論は揺れ続けるが、市議会はついに保存を決議。被爆から21年が経っていた。 実相を語る資料館も翻弄されていた。それは原子力平和利用への熱。資料館を原子力の博物館にという構想が持ち上がり、そこで行われたのは、行政やメディアがアメリカの機関とともに主催者となった原子力平和利用博覧会。当時高校生の原田さんが訪れていた。

 元平和記念資料館館長 原田浩さん

 「当時と現在を比べても、一つの流れと言うのは変わってないと思いますね。流れの一つは原子力平和利用博覧会のところから始まると思います。広島の資料を一切展示はしない。展示するものは原子力の平和利用につながるものだけをやるんだと」 ーー被爆の実相に関するものは? 原田浩さん 「全くない」 しかし、違和感はあまりなかったという。「平和利用」の言葉が果たした効果だった。

 原田浩さん

 「こんな素晴らしいことに使えるのかというのは、私だけじゃなく、多くの人はそう思ったと思います。非常に強く印象に残っているのは、実験用の原子炉の模型を置いたんです。要になるところ(=主催の行政、メディア、大学など)をきちっと押さえた上で、展示にいったというのは見事な成果だと思いますね。すごい洗脳があったと思いますよ」 そこから10年以上の時を要し、原子力平和利用の展示は一掃される。被爆地の資料館としての位置づけがようやく確立した。 原田さんが平和行政に取り組む中で直面してきたのは、国の考え方との落差だ。

 ■「あの頃に似てる」被爆者が恐れる“当時の空気”の再来

 95年、国際司法裁判所で広島、長崎両市長が、「核兵器使用は国際法に違反する」と証言したが、国は、その陳述の前に、こうくぎを刺した。

 

元平和記念資料館館長 原田浩さん

 「いまから長崎と広島の市長が意見陳述するけれども、必ずしも日本政府の見解とは違うと言い切りました」 

原田さんは、広島サミットに同じ風景をみる。G7の首脳が被爆地で犠牲者を慰霊する一方で、核による抑止を正当化したのだ。 

原田浩さん 

「中身の問題からしたら、どう考えても広島とは相容れない状態。しかも、ウクライナの大統領がやって来て、広島で戦闘機の供与を決めて帰るということ、私どもからしたら唖然として、言いようがないです」 切明さんは戦争へ向かっていく当時の空気の再来を恐れている。

 切明千枝子さん

 「怒涛のように押し寄せて来る。抗うことがちょっとやそっとでは出来ません。波に飲み込まれてさらわれていくという感じ。恐ろしいなと思っていた。最近あの頃に似てるんじゃないのっていう気がしますよ。自衛隊の軍備費が増大される。攻めて行けるようにするんだなんていう声も聞こえてくる。岸田さんは広島のご出身なんだから、もっと平和を大事に考えて下さればいいんだけど」 

■『はだしのゲン』作者の墓石に刻まれた言葉

 広島市と瀬戸内海を一望する丘陵地。ここに、『はだしのゲン』の作者・中沢啓治さんは眠っている。 

中沢さんの妻・ミサヨさん

 「原爆を受けた時、多くの方が亡くなったでしょ。その線香のにおいがよみがえってくるらしくて、線香のにおい嫌いなんだって。広島の瀬戸内海に撒いてくれって。それに逆らっちゃったけどね」 そして、その墓石には、こう刻まれた。

 「人生にとって最高の宝は平和です」

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以上、転載。

 

平和・原爆関係のイベントに行くと、たまに「元平和記念資料館館長 原田浩さん」に会うことがあります。今も核廃絶に向かって取り組まれています。

「切明千枝子さん」の被爆体験を聴いたことがあります。とても衝撃的でした。You Tubeに投稿しています。ご笑覧ください。