Yahoo!ニュースより。
【ヒロシマを理解したのか】91歳の被爆者サーロー節子さんが見たG7サミット
配信
世界各国で核兵器廃絶を訴え続けるカナダ在住の被爆者サーロー節子さんが、5月から故郷・広島に滞在しています。3年半ぶりの帰郷と、間近で見た「G7広島サミット」への思いを取材しました。
■岸田文雄首相(5月21日)
「子どもたち、孫たち、子孫たちが、核兵器のない地球に暮らす理想に向かって、一人一人がヒロシマの市民として、一歩一歩、現実的な歩みを進めていきましょう。」 初めて被爆地で開かれた「サミット」。宣言には、「核兵器のない世界という究極の目標に向けて取り組みを強化する」などの、美辞麗句が並んでいました。
■サーロー節子さん(5月21日)
「胸が潰れるような思いがしました。死者に対して大きな罪だったと思います。」 サミット開幕の1週間前。サーロー節子さんが、3年半ぶりの帰郷を果たしていました。
■鶴記者
「おかえりなさい。」
■サーロー節子さん
「センキュー。二男です。」 同行するのは、二男のアンドリューさんです。 ■サーロー節子さん
「ずいぶんこの辺りは変わってますね。アンディー、私はあの丘に逃げ込んだの。」
■アンドリューさん
「そうなの?」 78年前、ここで見た「あの日」の惨状を思い起こさせるものは、ありません。 それは13歳のとき。学徒動員の作業に取りかかろうとした瞬間でした。爆風で吹き飛ばされ、意識を失いました。気がつくと建物の下敷きに・・・。死を覚悟したとき、声が聞こえました。
■サーロー節子さん
「暗黒の中で、兵隊さんの声が『諦めるな』『這って、あの光まで這っていけ』って言われた。あの人が私の命を(救った)。その人の言葉が非常に意味を持っているんですね。」 かろうじて劫火から逃れたものの、級友のほとんどは死亡・・・。建物の下敷きになったまま炎に焼かれていました。 そして、姉と4歳の甥も重いヤケドを負い、苦しんだ末になくなりました。 なぜ、自分は生き残ったのか。その意味を問い続けてきました。 大学卒業後は、アメリカやカナダの大学に留学。 そして、結婚を機にカナダに移り住みます。 海外で実感したのは、核兵器を巡る考え方の違い。被爆者としてどう生きるべきか、自の使命を考え抜きました。
■サーロー節子さん
「我々は生き続けなきゃいけないんだ。生かされたんだと。自分たちだけで生きたんじゃないと。『生かされたんだ』って。その意義というものを考えた先には、じゃあどうすればいいのか。『語り続けるんだ』そういう信念に到着したわけですね。」 家族や友人の死を無駄にしたくない。選んだのは、世界中で核兵器廃絶を訴える道です。 一定の成果が得られたのは2017年。核兵器の開発や使用などすべてを禁じる条約の成立です。 突きつけられる核軍縮の理想と現実・・・。混迷する世界情勢が立ちはだかります。 サーローさんが、息子と共に訪れたかった場所があります。それは、原爆資料館です。
■サーロー節子さん
「私の学校がこの辺りで、広島駅が向こうに。」 78年前、キノコ雲の下で何が起きていたのか。自らの目で見て考えて欲しいと、アンドリューさんを連れてきました。1つ1つの資料を目に焼き付けます。13歳で被爆したサーローさんは、特に子どもの遺品や写真の前では、言葉もありません。
■サーロー節子さん
「深呼吸しなきゃいけないほど・・・。私と同年輩だったお子さんたちの写真を見ると・・・。」 なぜ自分は生かされたのかー。 だからこそヒロシマを伝え続けるー。 その決意を支えるのは、原爆の犠牲になった家族や友人たちへの思いと、生き残った者の負い目です。 そして、被爆地・ヒロシマを訪れるG7の首脳に伝えたいこと・・・。
■サーロー節子さん
「(首脳に)どんなに人間が苦しんで亡くなったかっていうことを実感してもらいたいわね。あれ、人間の姿じゃないわね、ああいう姿なんて。あれを目に焼き付けて持って帰ってほしいわ。」 G7首脳が初めて、全員揃って平和公園を訪れた場面で幕を開けた「広島サミット」。原爆資料館を視察し、被爆者の話にも耳を傾けました。しかし、その詳細は明らかにされていません。 爆心地に降り立った、核兵器保有国のアメリカ・イギリス・フランスの首脳たち。サーローさんは、広島市内のホテルでその様子を見守ります。
■サーロー節子さん
「世界の権力者たちがこぞってこの町にいらしてくださったということは確かに、我々が期待できなかったこと、あなたたちがどれだけ私たちの経験を理解してくださるか。それによってあなたたちの政策の決断がどういうふうに影響を受けるのか、私たちはそれを見守っています。」 G7サミットでは初めてとなる、核軍縮に焦点をあてた特別文書「広島ビジョン」に合意。「核戦争は決して行われてはならない」とする一方で、自らの核保有・核依存を容認しています。 サーローさんは、「核兵器禁止条約」への言及がなく内容に進展がないと、失望をあらわにします。
■サーロー節子さん
「本当に我々の体験したことを理解してくださったでしょうか。その反応を私たち聞きたかったですけれども、それも分かち合ってくださらないですね。非常にこれはね広島まで来て、これだけしか書けないのかと思うと、胸が潰れるような思いがしました。」 人生をかけて訴え続けてきた核兵器廃絶。未来を担う若者に託す思いとは・・・。
■サーロー節子さん
「何年にもわたって核の被害者は、非核による平和というトーチを掲げてきました。このトーチを受け継ぎ、高く掲げてくれる、より若い、より強い手が必要です。」 亡くなった友や家族達に、何時になっても「核兵器廃絶」を報告出来ないやるせなさ・・・。「核兵器のない世界」という理想を、いかにして実現させるのか。91歳の被爆者の問いかけが続きます。
【2023年6月7日放送】