「ちきゅう座」より転載。

 

1月27日は、「ホロコーストの日」だった(1)三か所の強制収容所をめぐって

<内野光子(うちのみつこ):歌人>

 1月27日は、「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」だった。ポーランド、クラクフ郊外にあるナチス・ドイツによるアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍によって解放された日だったのである。
昨年2月24日からのロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナをナチスから解放するという名目だったのであるが、それは、まぎれもないウクライナへの侵略だったのである。

 私は、2000年以降、夫とともに何回かヨーロッパに出かけている。その折、アウシュビッツ、ザクセンハウゼン、ダッハウ、三か所の強制収容所を訪ねることができた。そのたびに、戦争の残虐、ナチスの狂気を目の当たりしたと同時に、その戦争責任の取り方、とくにドイツと日本の違いは何なのか、なぜなのかを考えさせられたのである。
三か所の強制収容所の訪問については、すでに以下のブログに記しているが、「ホロコーストの日」にあたって、わずかな体験ながら、それぞれの収容所の成り立ちの違いや戦跡保存の仕方の違いなどあらためて思い起し、考えてみたい。

2010年5月31日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2014年11月17日「ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

2018年5月20日「 ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-22eb.html

アウシュビッツ強制収容所

 アウシュビッツ強制収容所は、ソ連邦の一つだったポーランドが、1940年政治犯収容のために建てたが、ドイツ軍に占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになった。近くのビルケナウ、モノビッツェにも増設、収容された130万人の内ユダヤ人110万人、ポーランド人14、15万人とされ、犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人7万人以上に及んだという。1942年からナチス・ドイツがユダヤ人の絶滅計画が立てられ、実施に移された。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけで、1944年8月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品が、いまの博物館の核になっている。
 見学に訪れる日本人も多く、日本人の公式ガイド中谷剛さんもいるが、予約が大変らしい。2010年5月17日、見学ツアーに参加し、語学別に分けられ、私たち夫婦は英語によるガイドに従った。
 最初に入館した4号館・5号館では、関係書類や資料、写真の間を通り抜けて、目にしたのは、ガラス越しのいくつもの展示室に積まれた、毛髪、それによって編まれた絨毯、眼鏡、靴、トランク、鍋・釜・スプーン、義足・義肢・松葉づえ、歯ブラシ・・・。その量とそれらを身に着けていた一人一人を思うと、いたたまれず、展示に目を背けることもあった。解放当時の残された衣服だけでも、男・女・子供用衣服は併せて120万着に及んだという。
 6号館では、収容所生活の実態が分かるような展示が続き、廊下には収容者の登録時の写真がびっしりと並ぶ。正面・横顔・着帽の三枚で、残されたものは初期のポーランド人のもので、ユダヤ人は写真も撮られなかったという。収容者の多くが、シャワー室ならぬガス室に送られたのである。

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収用列車は、ここで行きどまりになった。

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雨の中、いよいよ見学コースに入る。遠くに、”ARBEIT MCHT FREI”のアーチの一部が見える。

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棟と棟の間にも有刺鉄線が。

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雨は止まず、泥濘は続く。翌日は大雨に見舞われたそうだ。

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「死の壁」と呼ばれる処刑場だった。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

 2014年10月26日、ベルリン中央駅から、RB(Regional Bahn)5で約30分という、強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かった。さらに、歩けば20分ほどだというが、1時間に1本のバスに乗る。バス停からも長い道路の石塀沿いには、大きな写真のパネルが並び、この収容所は、ドイツ・ナチスからの解放後は、ソ連・東独の特設収容所として使われていたという沿革がわかるようになっている。
 1933年3月、ナチ突撃隊によって開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、1934年7月に親衛隊に引き継がれ、1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、設計されたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。
1945年4月22・23日、ソ連とポーランドの軍隊により解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。1945年8月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも1万2000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

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 収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字が、ここにも掲げられている。入り口近くに扇型の点呼広場を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。
 博物館では、収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回りきれずに、見残している。

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バス停を下りるとこんなモニュメントが。

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収容所通りは、長い黄葉の道だった。

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ここの門扉にも、”ARBEIT  MCSHT FREI”の文字が。

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手前が収容棟Barackeの跡地、後ろが博物館。

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こうしたバラック跡地に小石が敷き詰められ、68棟が続く、この広さである。

 

ダッハウ強制収容所

 ミュンヘン中央駅からSバーン2でダッハウに向かう。ミュンヘン在住48年というガイドさんと一緒である。ダッハウ収容所の公式ガイドの資格を持つ。収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられているという。
 1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者3万2000人以上を数え、1945年4月29日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験(超高温、超低温実験)と称して、人体実験が数多く実施されたことでも知られている。(つづく)

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ここの門扉にも

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ガス室を出た、若い見学者たち。

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何基もの焼却炉が続く。

初出:「内野光子のブログ」2023.1.29より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/01/post-63d89f.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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