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沖縄の人々が感じ取る、日本の政権幹部の変化 「苦難の歴史」に対する無理解を隠さない政治家たち

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47NEWS

政府の主権回復式典に抗議して開かれた「4・28屈辱の日沖縄大会」=2013年4月28日、沖縄県宜野湾市

 太平洋戦争に敗れた日本が、主権を回復したのは約7年後、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日だ。一方、沖縄は日本から切り離され、アメリカの施政権下に置かれた。このため沖縄では、4月28日は「屈辱の日」と呼ばれる。日本政府は今年の4月28日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、沖縄県の対応を是正するよう指示。神経を逆なでするような措置に、沖縄県関係者からは「あえてこの日にやったのでは」と不満が渦巻いた。

  今回の件だけでなく、近年、沖縄の「苦難の歴史」を知る政治家が少なくなったせいか、政府側の無理解や冷酷さが指摘されるようになった。以前の政権幹部には、考えや立場が違っても、根底にはある種の信頼関係があったという。「溝」はいつの間にこんなに広がってしまったのか。(共同通信=西山晃平)

  ▽少女暴行事件

  2013年4月28日、東京で政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が初めて開かれた。「天皇陛下、万歳」。安倍晋三首相は、出席者の声に呼応する形で両手を上げた。ただ、沖縄では式典に合わせて抗議大会が開かれ、主催者発表で約1万人が「県民の心を踏みにじり、再び沖縄を切り捨てるものだ」と怒りの声を上げた。沖縄と政府の認識の違いが、あらわになった象徴的な1日となった。

政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」で万歳する安倍晋三首相(左端)=2013年4月28日、東京・永田町の憲政記念館

 どう受け止めたのかを聴こうと、米軍キャンプ・ハンセンを抱える沖縄県金武町の吉田勝広元町長(77)を訪ねた。かつて米兵向けバーだった雰囲気の残る事務所で、椅子に深く腰かけた吉田氏は「苦しめられた日に、なぜ式典をやったのか。現場を見ない、知ろうとしない国会議員が増えた」と語り、1995年の少女暴行事件を回想した。

  事件は、米兵3人が少女を暴行。95年10月、事件に抗議し、沖縄県宜野湾市の海浜公園を約8万5千人(主催者発表)が埋め尽くした。1972年の日本復帰後、残り続けた米軍による事件・事故に怒りのマグマが噴出した。

  沖縄に向き合ったのが、1996年1月に就任した橋本龍太郎首相だった。沖縄入りした橋本氏は予定時間を大幅に超過し、吉田氏ら首長の訴えに耳を傾けた。金武町の米軍ブルービーチ訓練場を視察した梶山静六官房長官も、吉田氏に「素晴らしい海だ。何とか返還を実現したい」と熱く語り、抱き合った。 

 

 橋本氏らの脳裏にあったのは、日米双方で20万人超が死亡し、うち一般住民が推計約9万4千人を占める沖縄戦と、その後の米統治だった。  梶山氏は1997年に書いた当時未発表の論文に、沖縄のことを考えて眠れなくなることがあるとして「決まって目の前に浮かんでくるのが、沖縄の摩文仁の丘である。多くの犠牲者を出したこの丘を訪れた時、私は抑えようにも涙を止めることができなかった」とつづった。 

 橋本氏は米軍統治を詳細に調べた大田昌秀知事の著書「沖縄の帝王 高等弁務官」に付箋を付けて読み込み、大田氏との会談に臨んだ。日米両政府は1996年4月、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の全面返還で合意する。

  吉田氏は、1970年代に社会党の上原康助氏の秘書として政治キャリアをスタートさせた。橋本氏ら保守系の政治家と政治信条や政策スタンスは異なる。ただ「沖縄問題をどうにかしないといけないとの考えは同じだった。地元の声を真摯に聴く態度があった」と指摘した。

米軍普天間飛行場の移設先、沖縄県名護市辺野古沿岸部。左は辺野古の南側の海域、手前は大浦湾=2月

 2014年12月、普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する翁長雄志知事が誕生。15年、梶山氏を「政治の師」と仰ぐ菅義偉官房長官と向き合った。翁長氏の著書「戦う民意」によると、翁長氏は、苦難の歴史に対する理解を求め「県民には『魂の飢餓感』がある」と訴えた。しかし、菅氏の応答は「溝の深さ」を感じさせるものだった。「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されたら困りますよ」 

 沖縄振興予算の性格も徐々に変容していった。「沖縄の苦労に対する祖国の償い」(初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏)とされていたはずが、基地の受け入れ態度で額が増減し「アメとムチ」とも評されるようになった。こうした政府の態度には、辺野古移設容認派の保守系政治家でさえ「沖縄は地上戦で焦土と化し、戦後は米統治下に置かれ、高度経済成長から置いていかれた。基地問題とのリンクは違うだろう」と漏らした。

  ▽祝賀とはほど遠く

  沖縄は今年、日本復帰から50年の節目を迎えたが、祝賀ムードとはほど遠かった。4月28日、沖縄県北端の国頭村と、鹿児島県南端の与論町(与論島)を出港した船計約20隻が海上に集まる集会があり、基地負担解消などを訴えた。

 

 ただ、国頭村辺戸岬で開かれた「祖国復帰50周年記念式典」では、頭上を米軍機が何度も飛来。騒音で関連の催しが一時中断する場面もあり、復帰後も残ったままの負担を印象づけた。日没後、かがり火をたく集会で、復帰運動で歌われた「沖縄を返せ」を合唱していた女性は「日の丸を振り、祖国の誇りを持って復帰した。米軍基地を減らさないといけない」と語った。

  一方、政府はこの日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、県が不承認とした「設計変更申請」を認めるよう是正を指示。辺野古反対派の1人は「あえてこの日を選んで命令したのではないか。国は冷酷で非情だ」と話した。

  「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」から3年後の16年4月28日には、元米海兵隊員で軍属の男が、うるま市で20歳の女性会社員を殺害した。遺族と交流のある吉田氏は、命日には基地に隣接した遺体発見現場に献花台を設置し、祈りをささげる。 

 吉田氏は、草の生い茂る遺体発見現場に記者を案内した際、こう嘆いた。「沖縄でこんな事件や事故が繰り返されているのに、政府は解決策を示さない。日本の主権は本当に回復したのか」(肩書は当時)