BuzzFeedより転載。

 

原稿から削られた6文字 原爆の日1週間前に急逝した韓国人被爆者の"遺言"とは

広島の原爆の日の1週間前、ある被爆者の男性が亡くなった。男性のメッセージを収録した映像が平和記念式典の会場で流されたが、広島市の手で6文字削られていた。なぜか。男性が死の淵で言い残したかったことは。

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原爆ドームがある選挙区が地盤の岸田文雄首相が参列した広島の平和記念式典。

その会場で流れた動画メッセージに登場した被爆者の中に、原稿の一部を広島市の手で削られ、その無念を訴えて式典の1週間前に亡くなった男性がいた。

一連の経緯を見つめてきた広島在住のフリーランス記者、宮崎園子さんが報告する。

 

自らの被爆体験を国内外で精力的に証言してきた広島の被爆者が、原爆の日(8月6日)の1週間前に、93歳で息を引き取った。盲腸がんのため亡くなった韓国原爆被害者対策特別委員会委員長の李鍾根(イ・ジョングン)さんだ。

広島市の求めに応じ、被爆者としての思いを述べたメッセージ映像を収録したが、用意していた原稿の一部を削るよう市の担当者に求められた。「なんで言いたいことを言わせないの」。亡くなる直前、悔しさを語った。

死の淵で、彼が伝え残したかったことは何だったのか。

Sonoko Miyazaki

​​​​​​平和式典の会場で流れた李さんのメッセージ映像会場に流れた映像

戦後3人目となる広島県選出の首相、岸田文雄氏ら多くの来賓を招き、6日に平和記念公園で開かれた広島市の平和記念式典。

午前8時の開式に先立ち、会場に設置された大型ディスプレイで、被爆者19人がそれぞれの思いを語るメッセージ映像が流された。年齢順で最後となった李さんのメッセージは、こうだった。

「あの日被爆した朝鮮半島出身者たちは、同じ被爆者でありながら、終戦を境に『外国人』として援護を受けられないまま多くの人が死んでいきました」

51秒の短いメッセージは、李さんが7月30日に逝去したことや、動画は6月30日に撮影されたものだというおことわりつきで流された。

しかし削られていた6文字

式典に参列していた私は、この映像がこの内容で流れるのを、悔しい思いで眺めていた。

「一番言いたかった部分を削るように、広島市の担当者に言われたのよ」。生前の李さんから、そう聞いていたからだ。

李さんの手元にあった原稿の文言は、こうなっていた。

「あの日被爆した朝鮮半島出身者たちは、同じ被爆者でありながら、終戦を境に外国人として切り捨てられ、援護を受けられないまま多くの人が死んでいきました」

しかし映像では、「切り捨てられ」の6文字が削られていたのだ。

日本名で生きた戦後

在日韓国人2世の李さんは長く、「江川政市」という日本名で生きてきた。

運輸省広島鉄道局に勤務する16歳の鉄道員だった1945年8月6日、爆心地から1・8キロ離れた場所で原爆に遭い、大やけどを負った。

ただ、被爆体験は胸の奥にしまい、3人の娘を養うために懸命に働く人生を送ってきた。

Sonoko Miyazaki

​​​​​​​鉄道員だったころの李さん(本人提供)

そんな人生が2012年に一変した。

「世界一周の旅ができるなら」という軽い気持ちで、ピースボートの世界一周の船旅に参加した。被爆者が乗り込み、船内や寄港先で被爆証言をするものだった。

韓国のパスポートを持つ李さんは、80歳をとうに過ぎたこの時、自らの本名である「李鍾根」を民族コミュニティー外で初めて名乗り、世界各地で政治家や市民団体の人たちに、自分の身に起きたことを語ることにした。

Sonoko Miyazaki

​​​​​​​2022年3月、平和公園内のカフェで語る李さん(2022年3月)

私は朝日新聞の記者として2017年に広島に2度目の赴任をしてから、李さんをたびたび取材してきた。

李さんは「李鍾根」として生きることにした当時取材した朝日の記者に対して大きな信頼を寄せていた。また、朝日の読者だったこともあってか、私をかわいがってくれた。

今は亡き私の祖母と李さんが同世代の被爆者だったこともあり、祖母が生き抜いた時代と原爆を知りたくて、私も自分の祖父のように慕った。

「江川政市という日本の名前では、被爆者としての本当の思いを話せないんです」

李さんは生前、そう言っていた。戦時下の日本の加害や今も続く差別について語ると、別の被爆者から「なぜ日本を貶めるようなことを言うのか」と批判されたこともあったという。

二重の差別

在日韓国人として、そして被爆者として。自らの被爆体験を証言するとき、「二重の差別があった」と李さんは語った。

小学校の通学路で「朝鮮人!」と子供たちから罵声を浴びたこと。

キムチが入った弁当を「くさい」と担任の先生に窓から放り投げられたこと。

近所のおじさんに声をかけられ、小便をかけられたこと。

そして、原爆。

やけどの傷口にわいたウジを、母は一つ一つ箸でつまんで取り除きながら、「パルリチュゴラ(早く死んでくれ)」と涙を流した。

焼け野原となった広島では薬も満足に手に入らない。痛みを鎮めることもできない。息子の姿を哀れに思った母は、思わずそんな言葉を口にしたのだ。

懸命の看護の甲斐あって4ヶ月後に職場復帰すると、被爆の事実を知る同僚はよそよそしくなり、近づいてこなくなっていた。当時、原爆症は伝染するという噂が街中に広がっていた。

時事通信

​​​​​​​原爆投下後の広島の惨状

市から届いたファクス

李さんは広島市の外郭団体、広島平和文化センターが委嘱する「被爆体験証言者」としても活動を始めた。

修学旅行で広島にやってくる子供たちや観光で訪れる人たちに、二つの名前で生きてきたことを赤裸々に語り、「若い人たちには、過去に対する責任はないけれど、未来を作る責任はある」と訴えてきた。

Sonoko Miyazaki

​​​​​​​2013年、米ニューヨークの高校で被爆体験を語った李さん(本人提供)

今年1月に検査でがんが見つかった。

例年より活動をセーブしながら、それでも可能な限り語ることをやめなかった。

広島市からメッセージ映像の収録を依頼された時も、二つ返事で引き受けた。規定の「45秒以内(200文字程度)」の原稿を6月中旬、広島市の担当部署に届けた。

すると数日後、市の担当者から、「切り捨てられ」の部分に二重線を引き、「カットしていただけないでしょうか」と求めるファクスが届いた。

Sonoko Miyazaki

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「切り捨てられ」をカットするよう依頼してきた広島市からのファクス(遺族提供=一部を加工しています)

「大事なところ削られちゃったよ」

その頃はまだ元気だった李さんは苦笑いをしながら、「まあ、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭に行った時に、カットされたところも含めて全文読むから」と私に言っていた。

「被爆者は『日本人』だけではない」李さんが訴えたかったこと

李さんが言いたかったことは、なにか。

米軍による広島・長崎への原爆投下によって犠牲となったのは、日本の本土出身者だけではない。

日本統治下の朝鮮半島で暮らす人々も当時、大日本帝国の「臣民」として徴用されたりして、広島や長崎の軍需工場などで労働に従事させられている中で被爆した人たちが多くいた。

その中には、日本で亡くなった人もいれば、朝鮮半島に戻り日本政府の援護を受けられないまま、病魔との闘いを余儀なくされた人たちも大勢いる。

1972年に韓国人被爆者が援護を求めて訴訟を起こすと、国(旧厚生省)は「被爆者は日本を出国すると援護の対象外」とする通達を出した。この後も訴訟が続き、国側の敗訴が続いたことで、国は2003年に通達を廃止した。

それでも、日本にわざわざ来ない限り、被爆者認定を受けて被爆者健康手帳を交付されることはないという運用は続いた。

時事通信

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2008年11月、長崎地裁で開かれた在韓被爆者の被爆者健康手帳交付をめぐる訴訟の判決を受け、「勝訴」の旗を掲げて喜ぶ支援者ら

韓国など海外にいながら手帳や被爆者手当の申請ができるようになるなど、最終的に日本にいる被爆者と同じ水準の援護を受けられるようになったのは、2016年。戦後71年、最初の提訴からも半世紀近く経ってからのことだ。

この長きにわたった援護のない状況は、「切り捨て」ではなかったのか。

こうした経緯を踏まえ、韓国原爆被害対策特別委員会の委員長として、李さんは海外にいる被爆者の援護の充実などを求め続けてきた。

Sonoko Miyazaki

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2021年8月5日、韓国人原爆犠牲者慰霊祭の会場に立つ李さん

原爆の犠牲となった同胞たちのために建てられた韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で、原爆の日の前日に毎年行われてきた同胞の慰霊祭に、今年も李さんは出席するつもりだった。

「はってでもいく」とまで言っていたものの、病魔は李さんの体をむしばんでいった。

「わしは8月まで生きられない」

「園子さん、わしはもう、8月まで生きられないよ」

李さんが泣きながら私に電話をしてきたのは、7月27日夕方のことだ。

いつもにこやかな李さんの異様な様子に驚いた私は翌日、彼の自宅に飛んでいった。

「もう8月5日の慰霊祭は行けそうもない。今月いっぱいでもう終わりだ」。被爆証言をする前にはカラオケに行って声を整え、少し甲高い、よく通る声で話してきた李さんは、すっかり細くなった声を絞り出した。

そして「まだ日本には、そういう風潮が残っている。差別。完全に差別じゃないですか。なんで言いたいことを言わせないの。私はそれ(広島市からのファクス)が返ってきたときに、なんでこんなことを消さなきゃいけないのかって」と、堰を切ったように私に訴えた。

2日後、李さんは亡くなった。

Sonoko Miyazaki

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2022年7月31日、通夜の会場で。脇に通名を添えた。

なぜ削ったのか。広島市の回答は

李さんがいない8月5日の慰霊祭に行った後、私は広島市の担当課に、なぜあの6文字を削らなければならなかったのかを尋ねた。

私が元の原稿や、市からのファクスを持っていると告げると、一瞬ギョッとしたような様子で「なんで持っているのか」と聞いてきた。

担当者は「ちょっと長いということと、繰り返しになっている文章があるので。この部分がなくても文章は通じる」と説明した。

新聞社に勤務していたころ、在外被爆者問題について司法担当記者として取材をした私は、「切り捨てられ」と「援護を受けられなかった」が表現の重複だというのは、在外被爆者援護の歴史に照らしてあまりに見識がないのではないかと指摘した。

李さんのメッセージは「長すぎ」ではなかった

それに、広島市が事前に発表していた広報資料でビデオメッセージを読み上げた19人の被爆者の発言時間を見ると、最も長い人で1分53秒。一方で李さんは51秒で、短い方から2番目だ。これを「時間の都合」とするのも不自然だろう。

「これ以上短くする必要があったのか」と尋ねたが、はっきりしない対応が続いた。すったもんだの末、最終的には課長が対応に出てきた。

「ご本人は、文字を削ることに納得しておられた。異議があるなら、その時点でおっしゃってほしかった」

平和推進課の稲田亜由美・被爆体験継承担当課長は、そう言った。

時事通信

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被爆から77年の広島平和記念式典

「自分の口で全文読めるなら」果たせなかった思い

確かに李さんは、削れという市の要求を一度は受け入れた。

しかしそれは、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭に出席し、削られた部分も含めて自分の口で訴えることで挽回できると、収録の時点では思っていたからだ。

だがその後、李さんは急速な衰えを感じて先がないと悟り、私に泣いて訴えてきた。

その時、もし自分が死んだら、言いたかったことを削られた事実を明らかにしていい、と私に言い残した。

それが、この話を公にする理由だ。

「李さんのメッセージは長かったわけでも、表現の重複があったわけでもない。そもそも削る必要があったのでしょうか。削らなければならなかったのは、何か別の政治的な理由があるのではないですか」

そう尋ねても市側は否定もせず、明確な答えはついに得られなかった。

被爆者援護行政や外国人被爆者問題に詳しい田村和之・広島大名誉教授(行政法)は指摘する。

「読めば数秒程度の言葉を、わざわざ削る必要があったのか。広島市の行事の中でものを言うなら、広島市が気に入らない表現や援護行政を批判するようなことは言うなということなのか」

同胞の無念を語り続けた

「本当でしたら車椅子ででも来るつもりでしたが、亡くなる3日前ぐらいからちょっと無理だと、献花をするには立たないといけないのに、立てないから行けないと言われて介護タクシーもキャンセルした。私たち姉妹もこんなに早くとは思っていなかった」

5日の慰霊祭に、李さんの遺影を持って参列した次女の宮崎千代さんは、声を震わせた。

ともに参列した長女の森田静香さんは言う。

「自分は日本に両親がいたので、被爆して痛くて辛いときも、まだ安心していられたけど、韓国から来たたくさんの同胞たちは、親もきょうだいもおらず、知り合いもいない中で、不安な気持ちと悲しい気持ちを抱えながら死んでいった。そう考えると胸が張り裂けそうだ、と父は生前申しておりました」

「そういう気持ちで、父は慰霊祭に参加していたのだと思います」

Sonoko Miyazaki

​​​​​​李さんの遺影を手に慰霊祭に参列した宮崎千代さん

「今日が、やさしい一日でありますように」

8月6日に平和公園で流されたメッセージ動画。李さんはこう語りかけた。

「生き残った私が被爆者として証言してきたのは、彼らの存在を伝えるためでもあります」

「平和は人間が作り出すものです。みんなで声を上げなければ、実現できません」

「核兵器も差別もない世界を、子どもたちに。世界中の皆さんにとって、今日一日が、やさしい一日でありますように」

Sonoko Miyazaki

​​​​​​​2021年6月、被爆建築物の広島大学旧理学部1号館前に立つ李さん


宮崎園子(みやざきそのこ)

広島在住フリーランス記者。1977年、広島県生まれ。育ちは香港、米国、東京など。金融機関勤務を経て2002〜2021年、朝日新聞記者。小学生2人を育てながら取材・執筆活動を続けている。近著に『「個」のひろしま 被爆者 岡田恵美子の生涯』(西日本出版社)。