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【ヒロシマの空白】忘れられた死者 大半が名もなき7万体 気付かなかったポスターの「はるさん」

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中国新聞デジタル

 1945年8月6日、米軍の爆撃機が人類史上初めて、都市に原爆を投下した。「約14万人」は、早い時期の広島原爆の犠牲者数とされるが推計値にすぎず、「±1万人の誤差がある」とも言われる。街全体が壊滅し、死者の把握もままならなかった。一人一人の犠牲者、焼け落ちた街並み、断ち切られた日常…。歴史に埋もれた「ヒロシマの空白」と、75年後の今、向き合いたい。

 平和記念公園内の原爆供養塔は、中が地下納骨室になっており「約7万体」が安置されているという。大多数は、誰なのかも分からない。しかし取材班は今年、1体の遺骨の身元を割り出し、遺族につないだ。手掛かりは、一枚のポスターだった。

■納骨室の「鍛治山はる」と、追悼平和祈念館にある遺影の「梶山ハル」

 直径16メートルのボウルを伏せたような形で、別名「土まんじゅう」。原爆供養塔にある7万体のうち、ごく一部の814体には骨つぼなどに名前が書かれている。広島市は毎年夏、納骨名簿のポスターを刷り、全国に配布しているものの引き取り手はなかなか現れない。

  一方、同じく公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、遺族から登録申請された死没者約2万3千人分の名前や遺影などのデータを公開している。同館の協力を得て、一人一人の遺影と名前に目を通していった。気が遠くなる思いになりかけた時、「皆実町3丁目(現広島市南区) 梶山ハル」さんに目が留まった。

  納骨名簿のポスターと照合すると、「皆実町三丁目 鍛治山はる」さんがいる。もしや同一人物では―。

  市内に住むハルさんの孫武人さん(83)の所在を突き止めて、会うことができた。「漢字は違うが、祖母に間違いないだろう。引き取って墓に入れてあげたい」。両手で顔を覆い、おえつを漏らした。

  梶山家は、広島駅からすぐ近くの愛宕町(現東区)で餅の製造・販売店を営んでいた。1945年春、戦況の悪化で生活は厳しくなり、父小市さんは家族で旧満州(中国東北部)へ渡る。しかし広島女子高等師範学校付属山中高等女学校に通っていた4歳上の姉初枝さんは「勉強を続けたい」と懇願し、ハルさんと皆実町3丁目の親族宅に身を寄せることにした。

  広島駅での別れ際、ハルさんは重箱に詰めたおむすびを持たせてくれた。初枝さんは、動きだした列車を追って「手を振りながらホームをタッタ、タッタと走り見送ってくれた」。武人さんにとって、姉との永遠の別れとなった。

 武人さんたちは翌46年6月、命からがら旧満州から引き上げてきた。広島にたどり着いて初めて、2人が行方不明のままだと知った。武人さんの母瀧子さんは、義母とまな娘の悲報に泣き崩れた。

■「あの子の涙忘れる事わ出来ない」母の後悔

 2011年に98歳で亡くなった瀧子さんは、生前にこう書き残している。義母ハルさんは実母のような存在で、「主人が養子かと言われるほど仲良く仕事にはげんだ」。広島駅での初枝さんの姿を思い「あの子の涙忘れる事わ出来ない なぜ連れて行かなかつたかくやまれてならない」。

 その瀧子さんが、生前に2人の遺影を追悼平和祈念館に登録していた。武人さんの長男の修治さん(54)=広島県府中町=は「祖母の瀧子はずっと(2人のことを)気にしていました」と振り返る。

 約7万体の遺骨が収められていると言われる原爆供養塔は、市が管理している。同じ公園内にある追悼平和祈念館は国の施設だが、市の公益財団法人が管理・運営を受託している。双方の情報を連携させていれば、もっと早く「漢字違い」に気付いたかもしれない。納骨名簿についても、周知すべきだろう。武人さんはポスターの存在を知らなかったという。

 ポスターをきっかけに遺骨が遺族に返還されたケースは、最近10年間で2件。3件目が決まれば、納骨名簿は813人になる。

■行方分からず捜し続けた、遺骨もない12歳の息子

 原爆供養塔に安置された遺骨のうち、骨つぼなどに名前が書かれている814体の遺骨に対して、圧倒的多数は名前もなく、身元の手掛かりはない。遺族の元に返すことは事実上、難しい。遺骨の数だけ、引き裂かれたままの遺族の悲しみがある。

 「杜夫、あなたは今どこにゐ(い)る」「火を潜っても貴方(あなた)に逢ひ度(た)い一心」―。広島市中区の原爆資料館は、三重野松代さん(1982年に82歳で死去)の自筆の日記を所蔵する。75年前の夏、12歳だった息子を捜し求めて焦土を歩いた日々をつづる。

  広島県立広島第一中学校(現国泰寺高、中区)1年だった長男杜夫さんは8月6日朝、「行って参ります」と学校近くでの建物疎開作業に出て、原爆の熱線に襲われた。

  市中心部から巨大な雲が上がっていく。松代さんは、杜夫さんを捜しに郊外の井口村(現西区)の自宅を飛び出した。たどり着いた校舎は跡形もない。生徒たちの亡きがらが横たわっていた。「殆(ほと)んど全裸になって火傷(やけど)を負ひ瀕死(ひんし)の状態に在(あ)る方をも、すでに息を引き取ってゐる方をも、貴方と同じ年格好の人と見れば一人一人近よって」みたが「火傷で容貌が全然わからない」。

 8日夜になって知人づてに「鶴見橋の東側にいたのを見た」と聞いた。顔や胸にやけどを負って倒れ、「お水が欲しい」と請うていたという。鶴見橋に近い比治山橋までは捜したのに、そこから先へと行かなかった自分を責めた。「足を伸ばさなかった後悔、貴方に申訳(もうしわけ)なくて、胸を八裂(やつざき)にされるやうです…かんにんして、許して、頑張ってゐ(い)て」

 

■「三重野杜夫」と記した半紙 燃やして「火葬」

 鶴見橋に駆け付けると、すでに負傷者は軍に収容されていた。夫の定夫さんが市沖合の似島や金輪島にも足を伸ばして捜したが、見つからない。9月21日、半紙に「三重野杜夫」と書いて燃やし、葬儀とした。

  絞り出すように言葉を紡いだ、母の日記。2004年、杜夫さんの姉の茶本裕里さん(90)=東京都東村山市=が原爆資料館に託した。自身は当時、県立広島第一高等女学校(現皆実高)4年。その日自分は休みだったが、市中心部での建物疎開に動員されていた1年生223人が全滅した。

  父定夫さんは海軍の軍人で、一家は1945年春に神奈川県から一時転入したばかりだった。「杜夫がどこかにいると思うと、広島から離れられなかった」。戦後10年以上、地縁のなかった広島にとどまった。「弟は笑顔にあふれ、両親に愛された子でした。わが子の遺骨すら帰ってこない親の悲しみが癒えることは決してありませんでした」  

 

   ◇  この記事は中国新聞とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。被爆から75年となり、被爆者の高齢化も進む中、次世代に何をどうやって伝えていくのか、地元メディアの目線から考えます。

 

中国新聞社

 

以上、転載。

 

中国新聞デジタルは、普段は転載禁止ですが、Yahoo!とのコラボということで転載できました。

 

原爆供養塔では、毎年、宗派を越えて慰霊祭が行われます。