文化規範としての日本語の危機― コロナ災禍とカタカナ語 ―内田 弘(うちだ ひろし):専修大学名誉教授

 

「ちきゅう座」より転載。

 

文化規範としての日本語の危機― コロナ災禍とカタカナ語 ―

以上、転載。

 

特に太字の部分に注目。

教育の世界(教科書や指導書、指導方法)にもカタカナ語が多くなった。

私が理解できないのに、子どもは理解できるのだろうか。

「化石」になりつつある自分がある、とは思う。

5月18は「言葉の日」だった(アメーバによれば)。

518=ことば、ことのは、と語呂合わせ。

日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字、絵文字などを組み合わせて多様な表現をしてきた。時代と共に発展・進化させてきたと思う。

しかし、今のカタカナ語、ローマ字の氾濫は、はたして発展・進化なのか、後退・退化なのかは、のちの時代が明らかなにしてくれよう。

政治家の無責任な「言葉使い」が、ますます言葉の重さを低下させ、政治不信を増大させている。

「責任を痛感している」と言いながら、責任を取らない姿勢は、言葉への不信を招く。

政治家がやたらとカタカナ語を多用したり、美辞麗句を並べるのには要警戒すべき。

街にはローマ字が氾濫、デパートの1階はローマ字だらけ、セレブでもない、ブランドをほとんど持たない私には発音も分からない。

ましてや小さな子ども、お年寄りはどうだろうか。

 

最近、テレビを観ながらすごい不快な気持ちになる「言葉」がある。

さて、おわかりだろうか。

「すごい不快な気持ち」は、さほど違和感はないが、アナウンサーやリポーター、俳優などが、本来形容動詞の「すごく」と使うべきところを「すごい」という形容詞を使う。

「すごい嬉しい」

「すごい楽しい」

「すごい悲しい」

「すごい腹が立つ」

そこ「すごく」ではないのか!

実は「すごい」は、何が「すごい」のか曖昧だ。

「すごい不愉快」とはどんな不愉快なのか。

この場合、「すごい」=たくさん、多い、とかの意味だ。

しかし「すごい」が重さや広さ、色さえも含んだ「言葉」なのだ。

景色を観て「すごい!」とは、風光明媚な景色かもしれないし、広さだけかもしれない。

相手に対して「すごいね」というのは、その技能や能力かもしれない。

中身を省略した、聞く相手が”想像”する言葉かもしれない